2011年3月1日火曜日

今日の想い 266

仏教にカルマという概念がある。因果応報として捉え、世代から世代へ渡る善因善果、悪因悪果が基本であって今の私の人生は私の過去生の結果として生きているということだ。しかしこの捉え方には、今生を既に定められたものとして変えようが無いという気分の上に成り立っているように思える。しかし本来のカルマとはその気分とは少し異なっている。私が思うに、カルマとは内的な原因が外的な結果として現れるということであり、更にその外的な結果に身を置くことで新たな内的要因を育てていく。今の今は過去の結果に生きていると同時に、未来の種まきをしている。即ち私達は常に創造の過程を生きているということが言える。今の私の在り様、私の生活に身を置くことで安住するのでなく、新たな創造の為の内的谷間に降りて行きながら、まだ見ぬ次元への内的要因を探し求めそれを育てていくと説明すれば少しはわかってもらえるだろうか。私が神様への道を進んでいることの証明は、私が悩み苦悶し、内的谷間の位置に下って消化しようと試みているかどうかだろう。悩み苦悶する位置を誰も喜んで迎えようとは思わない。しかしその位置に飛び込む決意と覚悟を備え、その混沌とした霊的不安から不安感情だけに意識の光を届けるのでなく、見えぬ不安で視線を落す内的在り様から希望因子が押し寄せてくるのを掴もうとする、視線をあらゆる方向に宛がえ希望因子を探そうとする私になるべきだ。それでこそ創造的人生活動であり、私のこの生き様は神様の創造歴史、創造活動とリンクしながら神様の創造の力を得るはずだ。私達が良く口にするところの、天運を戴くことがそれでこそできる。こんな話をするには勿論それなりの理由がある。実は訓読会に参加した。参加した者達は御父様から大きな難問を戴いた。怒髪天を突く御父様を間近にしながら、御父様から直接踏み絵を迫られ、決意と覚悟を迫られた。頭を抱えて小さくなって私自身が消え去ればいいのにと思える状況で、しかしその内的谷間の混沌の中で視線を上げて見ようとすれば必ず何らかの希望因子が飛び込んでくるはずだ。その期待感を内面に留めて見失うべきではない。取り敢えずは御父様の指示に先ず従うことだろう。その前に何らの思いも思考も感情も働かすべきではない。はてと考えれば考えるほどにサタンは浸入してくる。有無を言わさず先ず飛び込むべきだ。

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