2011年3月31日木曜日

七日断食の思い出

私達が祝福を受けた条件の一つとして七日間の断食がある。私が初めて七日断食をしたのは献身生活を始めて間もない頃だったと思う。十八を過ぎたあたりで、共に生活していた勤労青年の一人と偶然にも一緒に条件を立てることになった。同い年だったので何かと頑張り屋の彼を意識していたが、余りの信仰基準の違いを見せ付けられたのはこの七日断食だった。朝の聖地祈祷のランニングも、彼はしっかり食べている兄弟達に劣らず馬力をかけて走っていたのに比べ、私は足も上がらず相当後れてしまい、歩いて行くのが精一杯だったし、食への未練を断ち切って聖業に歩む彼に比べ、私は食欲を主管できずに食堂の前にたたずんで条件が終わったらあれも食べようこれも食べたいと、日を重ねる毎にそんな調子だった。大きく差をつけられたのは断食明けの時で、私が早々と祈祷を終えて食卓につき、出される食事だけに関心がいっていたのに比べて、彼は涙ながらの深い祈祷に入ってなかなか祈祷室から出てこない。やっと祈祷を終えて出てきて食卓に着いて箸を取っても、涙をとうとうと流しながら、聖霊に満たされているらしく申し訳なくて食べられないと言う。彼の信仰的姿勢に溜息を漏らす兄弟姉妹を横目に、何食わぬ顔で箸を進める私は微かな屈辱さえも覚えた。今思うと何とも外的唯物的な若かりし頃の情けない私だったと思う。断食条件は、食べるなと言われて我慢する、食欲を主管することのみが主題ではなく、肉的衝動を否定して生じる肉の渇きに対抗し得る、魂の力を目覚めさせることにある。正しく断食を行えば万物への感謝と共に、 肉の存在である以上に私は魂の存在であることを認識できる。意識をより高次に投げかけ、高次の認識を受け取る為には、今頼っているものを犠牲にする必要がある。私が更に魂の存在から霊の存在であることを認識しようとするなら、眠りを断つことが必要なのかも知れない。食を断って魂への目覚めを体験すると言うなら、魂の食(生命体の食)である眠りを断って霊の目覚めを体験できると言えないだろうか。ギルガメッシュが不死を願って西方浄土に尋ねて行き、義人ノアと思われる人物から七日間眠らないようにと言われたが、眠りに勝てず七日間眠り続けてしまった。それで不死に至ることはできなかった、即ち永遠の霊的生命を受け取れなかった。人間は肉体の支配を受けているから断食という象徴的肉体克己を通して魂による肉体の主管性を復帰する。更に堕落的魂の支配を受けているから眠りをコントロールして神霊による魂の主管性を復帰する。それはいかがわしくもある私の独断的仮定に過ぎないが、霊的力と眠りに対する主管力は通じるものがあるように思う。

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