2011年3月28日月曜日
今日の想い 283
往々にして御父様は無理難題を私達に差し出される。私達にすれば方法論として首を傾げる内容であったり、時には私の悟性が全く理解せず感情にも受け入れられない事もある。しかし一方で私達は、どうしてそのような無理難題を差し出されるのか、その意図をおぼろげながら汲んでもいる。私達の魂を御父様の魂の高みに引き上げ、真の愛が体恤され、私の全てを生まれ変わらせる為には無理難題を受け入れるしかない。心情相続の路程は論理を超えなければならない。特に御父様の間近で侍っておられる先生方に要求される信仰は、死ねと言われた方がまだ楽だと思われるほどで、御父様から距離を置いている者達が彼らをどうこう言い得る立場には全く無い。御父様は子女である我々の中から、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになる聖徒を探しておられるし、そのように訓練してもおられる。おそらく唯一人の聖徒だけでも立つなら、代表した立場で子女全体として絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準が立ったとみなされるのかも知れない。どう見たって食口の全てが基準を立てることなど、自分を見ても周りを見渡しても難しい。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てる者があるなら、彼は天使長を超え、天使長に変わって勝利した者だ。しかし一人の聖徒が立つ為には、彼を支える食口達の多くの精誠が崩せない城のように霊的基盤として供えられなければ難しいだろう。食口が並列に並べられてその中から一人の勝利者が現れるとは思えない。御父様が先生方を咎められるとするなら、支えるほどの精誠が足りなかった我々であるという認識は間違ってはいない。天使長の罪は天使長に従い天使長を支える多くの天使達の罪でもある。であればこそ聖書に記されている堕落した天使達という複数形が納得できる。もし御父様が間近で侍られる先生方を咎められ、兄弟達が口を開いて同じように咎めるとするなら、お門違いも甚だしく自分自身を貶めているに過ぎない。何も分っていない食口達の所業を御覧になられて、御父様の落胆がどれほどのものであるか、知る由もない。
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