2011年3月26日土曜日

今日の想い 281

田舎は未だに一メートル近くの積雪がある。この冬はドカ雪が何度も襲ってきて、その度に地球の裏側から心配の電話を入れた。積雪によるあばら家の倒壊もさることながら、除雪の重労働で難儀する、足も悪く年老いた父への心配もあった。何とかこの冬を越えたようで安心したが、二メートルを超えるほどの積雪は久方ぶりだった。空家ばかりが数件点在する寂しい田舎に、このまま二人を残しておいていいものかどうか、一度は成り行きに任せるしかないと結論付けた事だが、かつて無い日本の状況を見るにつけ、統一食口として逃げて背を向けているこの状況を変え得る何かを持ち合わせてはいないのだろうかと考え始めた。全てを捨て、親をも捨てた献身路程が当然だった日本の食口は、錦を飾って帰る事もできずに、子供の霊的生命の心配と共に、親の心配をも抱えている。ましてや長男であったり自分以外誰も親の面倒を見る者がいなかったら尚更だろう。アメリカにいる親しい兄弟は三陸の出身で、この震災をもろに被り、年老いた親兄弟は被災地生活を余儀なくされている。連絡が付かない兄は犠牲になったらしい。それに比べれば大した心配ではないのかも知れないが、多かれ少なかれ後ろ髪を引かれる様な現実が心を占めてきて、み旨への意志を欠こうとしている。しかしその悲観的気分にうな垂れたままでは、何の為の信仰生活であったのかということになる。その気分は既に現実に巣食う堕落的なものに負けてしまっている。親を捨て、故郷を捨て、そして日本までも捨てて歩めと言うのではなく、更に現実から逃避しろと言うのでもなく、捨てたのではなく超えた位置で受け取ったものがあるはずだ。受け取るものを受け取ったら、その超えた位置から日本を救い、故郷を救い、親を救う使命が私達にはある。現実から逃げるのではなく、現実を変えていく。その力は受け取ったものから取り出して余りあるはずだ。それはこの世的実力でもなく更に言えば人格でもない。いい人だと思われ自分で認めるとしてもチョウンサラムで救える訳ではない。私達が受け取ったものの一つは、真の父母の名による霊界動員をかける権限だろう。絶対善霊、祝福先祖を今の今動員できなくて、何の為の霊界解放だったのだろうか。その意志を動かせないと言うなら、大体霊界そのものを信じていないか知らないということになる。今一度、立ち上がって全天宙に宣言すべきだ。日本を救い、故郷を救い、親を初めとする氏族を救うことを声高らかに宣言すべきた。そうすることで先ず権限を行使する土俵に上がるべきだ。

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