2011年3月25日金曜日

人類史を考える (1)

人類歴史は人類始祖アダムエバから現代まで滔々と流れてきたが、遡れば遡るほど人間がどういう在り様をしていたかを見届けるのは難しくなる。イエスキリストが降臨された二千年前を遥か昔の事の様に思えるけれど、人類始祖からの何万年とも言える時の流れに比較すれば、二千年は僅かの期間だ。人類歴史は記録として残っていない期間の方が遥かに長く、人類始祖が内的に外的にどういう在り様をしており、どう変化して来たかを問うには、結果を見るに留まる現代の科学では到底無理だろう。人間は考える葦であるとパンセにある様に、現代の思考の在り様が人類歴史を通して存在していたと思っているけれど、思考は発展させてきたものであって現代人と同じような意識状態が古代の人々にも同じようにあったと思うのは間違いだ。人間の思考が現代に於いては頂点に達しているが、思考魂を培う過程で逆に失わなければならないものがあった。それが霊的な感性であったと見る。現代人は思考で論理を形作り、元素基準(鉱物)への主管性を備えて文明を発展させてきたけれど、沈んだ大陸に住んでいた古代人は、霊性をもって、植物動物にある生命への主管性を備えて文明を発展させていた。現代が機械文明なら、古代は生命文明だ。生命の力、とりわけ種子に閉じ込められている生命の力を自在に操れる霊性を備えて、現代の機械に変わる利便性を追求していた。しかし古代人も堕落人間は堕落人間であって、霊性の力を専ら利己的動機で乱用したが故に神様の願いからあまりにもかけ離れ、神の審判(ノアの洪水)を仰ぐことになり、選ばれた者達によって新しい歴史を出発させた。人間が思考の力を発展させていったのはそれ以降であり、それと共に霊性の力を失っていった。

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