2011年3月25日金曜日
人類史を考える (2)
現代人は思考を最も発展させるように精神の力を注いできたし、最も賢い者が人類の頂点に立って世界を主管してきた。洪水審判前後の霊性から思考への以降が、神様の願う人間のあるべき姿から益々遠ざかっていっただけだと見るべきではない。思考の無い霊性に身を任せれば、サタン悪霊の振る舞いに自分の身をまるまる預けるようなもので、事実それ故にありとあらゆる悪が蔓延した時代があったが、思考を備えることで判断ができるようになり、行動に対するブレーキを持てるようになった。しかし思考を発展させることで思考の力がある程度の人間性を回復させたとしても、神様が願った創造本然の人間の理想像からは未だ程遠い。霊性の存在から思考の存在へと移行したノアの時代が終末であったように、現代は思考の存在から愛の存在へと人間が移行すべき終末であると言える。思考が少なからず人間性回復への寄与を為した事実は認めるとしても、自らの思考を絶対視して、論理で計り知れない事柄は無きものにすると言うのであれば、思考で自分をガンジガラメにしてしまい、終末を超えて新たな人類進化への道からは外されることになる。自らの思考による論理で測れないものへの帰依、それが絶対信仰絶対愛絶対服従であって、それこそが終末の審判を超え得るものとなる。裸を恥かしく思ったハムが何故罪となったのか、現代思考でイメージしてもそれを罪にし得る論理は出てこない。ハムは霊性による感覚的行動を取るのではなく、思考を働かすべきだった。思考を働かせてノアの行動の意図、神様の意図を推し量るべきだった。新たな魂の力である思考で堕落的霊性による行動を主管すべきだった。真の父母を戴く現代の終末は、愛の力が思考の力を超えていかなければならない。しかし、自分の思考の範囲では計れない愛という概念を認めず受け取れなければ私の未来は閉ざされてしまう。多くの者達は思考の罠にはまっている。自己愛は認めても他への為に生きる愛、犠牲の愛は認めない。自分に感情があるように魂は認めるとしても霊界は認めない。自然の力への帰依は認めても神様は認めない。み言葉の素晴らしさは思考人間でも真の愛の力を認めさせ、更に真の愛の力を相続させることだ。2013年を超えて生きる新しい人類は、確実に真の愛の力を相続された者達だ。真の愛の力が宇宙を世界を主管する、愛の時代が開かれていく。しかしながら神様に取ってもどかしいのは、祝福家庭が豚に真珠を与えるようなものであり、一世が二世に受け継ぎ、二世が一世から相続する真の愛に対して、その力を認識できず、その価値を受け売りでは説明できても実感としての手応えが無く、この世的価値観に押されがちだということだ。
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