2011年3月4日金曜日

今日の想い 270

想いが注入され、魂が混入されてこそ、全ての存在は霊的に活きる。想いの強さが、魂の大きさが、その存在様相の品格を決める。存在を活きた存在たらしめている、その霊的内容を推し量ることができる私達になっているだろうか。霊的内容を推し量るためには、私自身が霊的高みに上らない限り把握し主管することはできない。私自身の霊を高めるためには私の根源が何処から来たものなのかが問われ、真の父母である根源と強く太く結ばれた私となれれば世界は思いのままだ。私達は地上世界に於いて、自分の周囲にありとあらゆる存在様相を備えた環境圏を見回している。それらを把握し主管しなければ、向こうから何かを差し出そうとはせず逆に主管されてしまうだろう。私が真の父母に繋がる本物であれば、愛の価値を知り愛で主管することを知り、愛で主管された存在は私に美を返してくる。家計に困窮する祝福家庭が多いとするなら、清貧をもって御父様に仕えるべきだと思っているのか、それとも正しく存在を愛で主管しようとしてはいないと言えるのかも知れない。別の言い方をするなら、対象が美を返し利益を差し出すほどに愛していないとも言えるし、自分の意識や思考が現状を掘り下げて原因を見出すほどに投入されていないとも言える。単純に世界規模の企業や、財を為した人々を見て、その他の人々と何が違うのかを考えてみるといい。売り上げを増やし利益を上げているそこばかりが注目されるけれど、事実それに見合うほどの投資をしている訳で、それは存在に対する与える愛でもある。まだ形にならぬイメージ存在へ想いの熱をとことん注ぎ込みながら形に仕上げていく。その過程で普通利益の事など考えない。子供を生み育てるのと何ら変わらない。しかし我々が見上げるほどの利益を上げ財を築いていても、それでもそこに真の愛と言えるものは未だ投入されてはいない。祝福家庭が正しく真の父母に繋がり、対する存在が真の愛で主管され、イメージが真の愛で生み育てられるなら、想像もできない爆発的な人類利益を生み出すだろう。未だ私達に真の愛の概念も、真の愛による観念も定まってはいない。しかしそれが確立してくるに従って前人未到の宝の山を掘り当てることになる。真の愛を所有することが、存在がその本宮を開いて真の価値を差し出す鍵を握ることになる。

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