2011年3月6日日曜日

今日の想い 272

民主主義と共産主義を秤にかけて、民主主義が善で共産主義が悪だと割り切ることはできない。しかし民主主義がアベルで共産主義がカインだというのは、御父様があらゆる機会ではっきりと告げておられる。カインがアベルを押さえつけて従えと言うのは神様の願いではないが、かと言ってアベルがカインを糾弾するのも願いではない。カインとアベルは一つになることが願いだ。カインに着き従うのであれば、アベルに従う何倍もの信仰が要求されるだろうし、カインが神様の元に帰りアベルと一つになることを為せないのであれば、許しも祝福も必要ありませんと断言し一筆残して従うべきだろう。下手に自分の秤で善悪を判断したり、ましてやこっちに着いていれば取り敢えずの生活も護られ得だろうと言うような、そんな表面的なことに行動を委ねるなら、今までの御父様に対する信仰は何だったのかと、自分の存在を否定するときが必ず来る。私はそこまでの内的熟慮が為されて取っている行動だとはとても思えない。人は未来を計ろうとする。未来を計って都合のいい、楽な道、得な道を選択する。しかし御父様の願われる道は、未来を計り予測し、選択する在り様を一切受け入れない。それは横的なものを中心として時間軸を置こうとすることであり、しかし時間軸は本来、縦的なものであるからだ。近い未来が見通せなくても、それでも縦的な御父様と私という軸を最優先すべきであり重要視すべきである。それでこそ横軸が定まり、私は横的展開を見ることができるし、生活という地上基盤もその後に備えられるであろう。この摂理の最後の時間の流れは、急流を駆け下っているようなものだ。今日見通した明日が全く変わってくる。今日の精誠の歩みが明日には思わぬ形で実を結ぶ。或いは今日の不信仰が明日の大きな災いになる。だから平面的予測など全く意味が無い。それでも人それぞれ時間の流れの度合いは違っているかもしれない。しかし全ての人類の時間の度合いが全て合わせられて、ナイアガラの滝を皆が下る時がある。

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