2011年3月22日火曜日

クロッシング

韓国映画、クロッシングを見た。脱北者の話なのだが、北の生活の悲惨さや、思想や政治への憤懣が背景にはあるものの、決してそれらを中心題材にして描写している映画ではない。最初から最後まで一貫して流れているのは、人間愛への賛歌だ。最後まで問いかけの形を取ってはいるが過酷な現実からの愛の抽出だ。貧困と病気、虐げと謀略。北に生まれたが故に運命付けられはめられた枷(かせ)に順応させられたまま、地に這いつくばって生を紡ぐのではなく、どんな環境にあれ、どんな状況に置かれるとしても、そこから滲み出して触手を伸ばし、愛する者の触手を探り当てて絡みつき一つになろうとする、愛の本質を詠い愛を賛美している。一握りの夢が次々と潰え最後のただ一つの希望さえも打ち砕かれて、映像は見る者を悲壮の中に引き込みながら幕を閉じていく。妻と一緒に見ながら、これ程の過酷な人生が現実としてあるという生々しい実感に、二人とも圧倒されてしまって涙も出ないし声も出ない。しかし主人公の回顧として最後に映されるセピア色の映像が、彼の体から霊が抜け出すようにして、過酷な現実から抜け出した美しい記憶の映像として流れ、見る者を安らぎに包んで引き上げる。彼の記憶の中には妻の笑顔、子供の笑顔が溢れている。何一つとして悲惨な状況に相対する記憶は彼から失せてしまっていて、悲惨にみえる境遇は美しい記憶を更に美しい記憶として際立たせ、光り輝く美しい記憶のみが彼の内面に無数にちりばめられている。表面的に見るなら神様へ向かう心を描いている場面がある訳ではないし、逆に神様がいるなら何故にここまでの運命を負わそうとするのかという問いかけさえなされている。それが返って見る者には本質を尋ねざるを得ないという、ここまでの意図が汲まれて演出されていたのかどうかは分らないにしても、私にはそう受け取られた。北韓に限らず、世界には未だ同じような境遇にいる人達が現実として存在している。神様と言う言葉を使おうと使うまいと、神様に対して呼びかけようが沈黙していようが、自由の環境圏にいる私達以上に生を生として彼らは生きている。死を突きつけられることで生を光り輝かせている。御父様を慕い侍る者として、私達は彼らを超えて生きていると言えるだろうか。生きることの本質に真正面から向き合って、生きていると言いながら実のところ死んでいるという、その堕落の位置から高く飛翔しているだろうか。彼らの基準を凌駕せずに祝福家庭だ天宙復帰だと言うのは恥ずかしい。御父様が私達に怒鳴り散らされるのは当然だろう。

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