2011年3月10日木曜日

富める者 貧しき者

この年まで生きて来れたことを、若かった頃の悩んでいた私は奇跡だと言うだろう。誕生日を迎えることには何の感慨も沸かないが、歳の数だけ年数を生きてきたことは当たり前のことなのに不思議に思う。若かった私がこの歳まで生きてこれることを有り得ないと思うのなら、更にアメリカまで来て、家庭を持って、子供までいるとなると、そこまで自分を強く太くしたものは一体何なのかと思うはずだ。頭が爆発して粉々になるほど精神不安に襲われて、そのうちに私が私を維持できなくなると、そう思い込んでいた。その崩壊の日がいつやってくるのか、びくびくしながら暮らしていた。若い頃の私に取っては、こうして未だ生きていること自体が、十分に神様の存在を証ししている。み言葉の力を証ししている。しかしそこに留まっているなら、私は結果として自分の事が解決されればそれでOKという自己中心でしかないだろう。戴いた一タラントを更に幾らに増やせるかを私は問われているし、増やさない限りは時間の前進的流れに反することになる。内的霊的意味に於いて前進は増加法しかない。増加法は投入だ。逆に減少法は抱えようとすることであり時間を遡ろうとすることだ。内的に増加したものは時間差で外的に増加する。内的なものが原因で外的なものが結果であるなら、投入したものは必ず形を見る。精誠を投入すれば精誠に見合った形を見る。その信仰、信念に私がどれだけ貫かれているかだ。打たれて奪われ続ける気分に浸るのではなく、打たれたら復帰する。心情を復帰し更なる覚悟と決意を引き出す。私に消去法は通じないことを霊界に見せるなら貧乏神は退散し、増加法の神々が私を幾重にも取り巻いていく。今日の私が十年先の未来を見て奇跡だと言うだろうか。いや、為すべくして為され、神様が働くべくして働いたと言うだろう。富める者はますます富み、貧しき者は持っている物でさえ取り去られる。マタイ伝、13章12節の聖句が成就する。

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