2011年3月21日月曜日

先ず、眠りから覚めること

前にも触れたことをもう一度口にすることになるが、自分は周りを見てどういう行動を取るべきだろうかという、そこからの思考は既に間違っている。その思考判断は周りを見渡す所から始めていて、私の内的行動を度外視してしまっている。本当の思考は私の良心から出発すべきなのだ。私が私の良心に尋ねながら、良心の願いのままに思考を働かせる。それがどれほどの内的戦いであるか、良心と思考する魂の間には深い深い溝がある。そのクレパスを命がけで飛び越えるほどに葛藤を乗り越えたとき、魂は柔軟性を備え良心の前に完全屈服する。そうして初めて私の思考が意味を成す。その思考はしっかりと良心の願いに合わせて紡ぎだされ、意志を働かせて行動に出る。だからどうしたこうしたと言う行動のみに限って善だ悪だと判断することはできない。その行動の動機がどうであったか、行動にでるまでの内的な在り様がどうであったかを問われる。しっかりと良心の願いのままに行動したのであれば、周りからどう判断されどう見られるかは全く問題にならない。私の良心に誓って、という言葉の重さを知っている者なら取った行動に対して悔恨を覚えることは無いはずだ。み言葉を学んだはずなのに多くの兄弟は自分の良心を知らずにいる。良心を知らずに神様を知ることはできないし、良心を知らずに善なる行動を取ることはできない。相変わらず周りを見ながら判断して行動しているし、相変わらず自分の間違いに気付かないまま内的霊的に眠ったままでいる。眠ったままでは、み言葉も救いも祝福も、神様も御父様も霊界も、捉えどころも無く手ごたえも無い、時間を刻むほどに消え失せる幻想を追っかけているようなものだ。私の良心をしっかりと掴めないなら、それは祈ってきたとは言えないし、信仰生活を歩んできたとは言えない。

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