2012年4月28日土曜日

今日の想い 398

血統を210代まで遡って、現代人と同じような姿をその先祖にも見るとは思わないほうがいい。さらに人間の地上的な意識が、現代ほどに目覚めていたとも思わない方がいい。しかし歴史を遡るにつれ、意識の光はより霊的なものに向いていて、アトランティス以前の古代に於いては地上よりは霊界の現実感の方がより大きかった。勿論、地球の在り様も現代と太古では異なり、その時代の人間の意識状態と連動して大気の様子も海や陸の様子も異なっていたはずだ。外的唯物的思考では決してイメージできるものではない。ノアの話も、アベルカインの話も、人類始祖アダムエバの話も、現代の外的唯物的思考だけによって表象しようとしても無理な相談だ。無理強いして限られた自分のイメージ力で勝手に表象したことを、辻褄が合わないと持ち出してもどうしようもない。意識が霊界をとらえられない者は、現代が唯物的思考であり、自分の心魂もそれに毒されていることがわかっていない。宗教も信仰も、唯物的な偏った宗教観であり信仰観になりやすく、それは霊界に根付いてはいない。誰か特定されてそういう状態にあると言うのではなく、誰もがそういう状態になりやすい。現代の一般的な意識状態が既に唯物的だからだ。霊界を信じる者も、霊的現象として何か普通ではない非日常的なものを想像して期待するが、それもまた唯物的な捉え方だ。それを期待している以上霊界は正しく認識されることはない。私達が受け取る外界の事物や動きは結果であるが、結果に対する背後の原因に意識の光を当てようとすれば見えてくるものがある。あたかも相手の表情から内面の動きを見たり、動作からその人の内面の性向が伺えることと同じだ。ノアも、アベルカインも、アダムエバも、事実であるけれども現代的な結果事実ではなく現代人が表象できない、敢えて言えば太古の原因事実だ。

今日の想い 397

復帰歴史は再創造歴史であり、創造は数理が根本にあるように復帰歴史は数理を復帰する歴史でもある。全ての存在が隠れている存在法則に従って存在しており、法則は数理によって組み立てられている。堕落によって奪われてしまった3数、4数、12数、21数、40数などの数を復帰する為に歴史は流れてきたが、それはそれぞれの数理の完成実体となるべき本然人間から数理未完成体の堕落人間になってしまったからだ。堕落人間は、本然の人間とはどういう存在かと聞かれて人格完成、愛の完成をイメージするが、それは間違いではないけれども時に抽象的であり捉えどころがない。しかし堕落人間と本然の人間の決定的な違いは、本然の人間は数理の完成実体であるということだ。堕落人間にとっての数理は思考活動に於いて限られた加減乗除を為す程度であるけれど、霊的高みまで人間存在の柱が届いていれば、神様の数理を思考にも感情にも意志にも直接受け取れるように思える。数理の話をされる時の御父様を見ていれば、そんなイメージを受け取れる。堕落によって加減乗除が現れたと言われて呆気にとられるしかない私だが、私自身も復帰の歩みを為している以上、数理を復帰する歩みでもある。条件や儀式に於いてだけ数理に関わっているようだが、家庭的四位基台で4数を復帰し三対象で3数を復帰していると言うように、或いは氏族復帰で先ず3人を立て12人に増やすと言うように、もっと数理に対して意識的であれば勝利の公式が見えてくるのかも知れない。

2012年4月25日水曜日

心情主義

死に対する実感、切実感がないと、生命であるみ言葉は私の中に浸透しない。み言葉への疑問を抱く者はみ言葉の本質へは関与せずに言葉、論理だけの表層しか見ていない。み言葉の本質である生命を受け取れないのは、自分が死に対面している実感、切実感がないからだ。死に対するそれらの門を通過しなければ、門を入って広がる霊界など実感できるはずもない。全ての地上人間が死を迎えることはわかっているし、自分も死ぬと口では言う。しかし口では言いながら他人事なのだ。人の病気が他人事のように、死も他人事でしかない。死に対する恐怖を言っているのではない。死の認識に恐怖の煽りを持ちこむなら、それはまた死に対する実感、切実感とは異なってくる。また人生に嫌気を覚え、人生を遺棄し、人生から逃亡する出口と捉えても、それもまた死に対する実感、切実感とは異なる。死の門を超えた霊界こそが主体であり、重心を置くべきであり、み言葉の価値は霊界に重心を置いた生活でなければわからない。御父様の価値も霊界に重心を置かなければわからない。霊界に重心を置くとは心情主義であることだ。霊界は感嘆の世界であり、霊界の言葉は感嘆表現であり、霊界生活は愛を呼吸する生活と言えるように、地上に於いて愛を呼吸するとは心情主義であり、心情の涙が絶えることのない毎日を送ればそのまま霊界に持ち込めるものを受け取っている。お父様のことを想って、一日中涙したことがあるだろうか。御父様の愛に気付いて、一晩中悔恨の涙を流したことがあるだろうか。愛を愛として受け取れない、御父様を否定し揶揄し蔑む者達が哀れでならない。敢えて非難されるような言動をわざわざ口にされながら、御父様が悪口を言われるので統一教会を信じることが出来なかったと言える言い訳さえも、反対する者達には残しておられる。

2012年4月24日火曜日

死生決断

確かに、かつてない混乱状況にあるのは誰もが認識している。そして様々な情報が溢れ返り、様々な意見が飛び交い、皆が混沌の中に投げ込まれる。ひとつの方向性だけに流れていて、その流れに逆らわずに身を任せていれば、自動的に目的地に連れて行ってもらえると思っていたはずだ。黙することが、意志を見せないことが、流れに任せるには好都合だったが、今のこの状況にあってもその態度を変えようとはしない。多くの兄弟達のなかに未だにそれが伺える。しかし今の今、はっきりとした意志を差し出さなければ信仰を失うことになるだろう。自分は戦は好まないとか、どちらも真の愛で抱擁しなければとか、あたかもそれが信仰者のあるべき姿と言わんばかりに当たらず触らずの生温い位置に居続ける。御父様が宣布文まで出されてはっきりと線を引かれた以上、どっちつかずの者も反逆者と変わらない。混乱の行く末を傍観していれば、サタンと神の戦いを傍観しているのと同じことだ。そういう者は自分の内なる戦いも傍観している。自分の心と体の戦いを傍観しサタンに妥協している。そういう者は永遠に御父様の理想のビジョンを見ることはないだろう。真の愛とは全く関係がない。先ず自分自身にはっきりと御父様に従う太い意志を備えるべきだ。その意志の柱を立てて、その柱に従い行けばいい。柱も立たずに、判断情報を集めるだけ集めながら、自分の取るべき行動を値踏みするなら、この方はメシヤだろうか、信じるに値する人だろうかと値踏みしているこの世の者達と何ら変わりはない。自分は死生をかけて御父様に従う成約聖徒だと言うなら、如何なる局面でもそれを貫き通すべきだ。モーセ路程で火の柱、雲の柱が出エジプトを導いたように、私の出エジプトは内面に於いて繰り広げられている。絶対信仰、絶対服従こそ私の火の柱、雲の柱だ。柱が立った者に御父様は現れ共に歩まれる。

2012年4月22日日曜日

愛について

愛にはいろんな形があるだろう。手を差し出す愛もあるだろうし、見守る愛もある。更に背を向ける愛だってあるはずだ。通り一遍の愛の形を想像して、想像した愛の形に合わなければ、そこには愛はないと決め付ける。優しさだけが愛でもなければ、心地よさだけが愛でもない。厳しさのなかにも愛はあり、痛みの中にも愛はある。愛に酔うという表現を御父様はよく使われるけれども、12対象の愛が千変万化していけば、いろんな愛を味わい、いろんな愛に酔うだろう。傍目にはどれだけ不幸に見えるとしても、この苦味やこの酸っぱさは、味わったものしかわからない。特別な愛の味だ。甘いものだけを選り好みして他の愛の味を味わうことがないのなら、それは涙の必要のない存在だろう。涙が流れるときは愛を味わっている。甘い愛では涙は流れない。愛にはいろんな味があるように、いろんな色合いもある。いろんな愛を味わいながら、いろんな色彩のなかに生きている。狭いアパートの一室で、何の色合いも無いこの部屋で、別に連れ合いである必要はないけれど、どんな有形無形な対象であれ相対するものがあるのなら、遣り取りしながら味わうものがあり、広がる色彩がある。孤独からは何の愛も生じない。世界を切り離し、他を切り離し、自分のことだけに関わろうとすれば、そこに愛は生じない。何の味気もなく何の色合いもない。そこに背を向ける存在でもあれば孤独よりはいいだろう。意識して存在を認めてくれたからこそ背を向けたわけだ。誰もが本当の愛に飢えている。人間は偽りの愛でここまで歴史を繋いできたが、歴史の結実体としては本当の愛でしか満たされないことに気付いている。御父様の愛は甘いとは言えないだろう。優しくも心地よくもないかも知れない。背を向けられたと思えるかも知れない。しかしそれは偽りの愛と比べるからだ。満たされることのない偽りの愛と比べても仕様がない。確かに御父様は背を向けられる。視線を逸らされる。しかしそれは私の真の愛の湧き水を誘い出そうとされる、御父様一流の子女への愛だ。

2012年4月21日土曜日

ヨシュア路程と再臨主路程

ヤコブ路程はサタン屈服の象徴路程であり、モーセ路程は形象路程だ。イエス様の路程はサタン屈服の実体路程であり、表示されたモーセ路程を足場に世界的カナン復帰路程を進めていかれた。モーセからヨシュアにカナン復帰が託されたように、紆余曲折としたモーセ路程のその轍の跡(あと)は深くえぐられていて溝を避けることが出来ず、結局洗礼ヨハネの使命を受け継いだイエス様は霊肉に引き裂かれた霊の部分、復活した霊的なイエス様が引き継がざるを得なかった。かくして実体としてのヨシュアの路程は残されており、再臨主はモーセの後を引き継いだヨシュアの形象路程を世界的に実体的に展開していかれる。モーセ路程を蕩減復帰するヨシュア路程であり、それは再臨主路程の表示路程だ。エリコ城を陥落しカナン復帰を果たした最後の勝利的歩みと戦いは、真の父母を戴いて戦う復帰歴史の最後の頂上決戦を見せてくれていることになる。盤石を中心とする出発の為の摂理、ヨルダン河への三日路程とヨルダン河まで導いた契約の箱、分かれたヨルダン河の流れ、ヨルダンの石十二を立てたギルガルの地、エリコの東境にあるこの場所に宿営したのが正月十日、そして正月十四日の過ぎ越しの祭りを守ってのち、エリコの城壁に向かって進軍していった。図らずも御父様は正月十三日(2013年)をD-Day(戦闘開始の日)として決めておられる。瞑想をもって深く尋ねながら講論の後編二章やヨシュア記を読み進めると、当時の勝鬨の声が行間を満たして溢れ出し、彼らが決意と覚悟を差し出したように真の父母に向かう私にも決意と覚悟を促される。

あなたが我々に命じられたことをみな行います。あなたが遣わされる所へは、どこへでも行きます。我々は全てのことをモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、どうぞ、あなたの神、主がモーセと共におられたように、あなたと共におられますように。誰であっても、あなたの命令に背き、あなたの命じられる言葉に聞き従わないものがあれば、生かしてはおきません。ただ、強く、また雄々しくあってください。(ヨシュア1.16~)

2012年4月20日金曜日

今日の想い 396

霊界を知るとは、死の向こうにある未知なる世界へ踏み込むことだ。論理的に霊界が存在することを理解したとしても、それで霊界を信じることは出来ても知ることにはならない。信じることから知ることへと踏み込むためには、感情の混沌に入っていくことを迫られる。感情を平安に保ったままで霊界に踏み込めるとは思わないほうがいい。地上という感覚世界は、感覚の背後の世界を知らなくても感覚に没頭して生きることができる。地上では全てが明らかなような気分でいるけれど、実は感覚だけに没頭しているだけのことで何も知らない。全ては闇の中だ。光も色彩も音もメロディーも触感も、感覚に没頭している以上すべて霊的には闇の中だ。外界である感覚世界に没頭するのではなく、私の内なる内界に意識を突っ込み、外界から受け取るものがどう内界の建立に関与させるかを意識しなければならない。感覚の背後に流れる、或いは感覚を通して働く多様な愛こそが私の内界を創り上げる。勿論愛することを学ばなければ愛は受け取れない。感覚に没頭する感覚存在ではなく、感覚を超えた愛に目覚め愛の存在とならなければならない。霊界は荒涼広漠とした深い夜の世界であり、堕落存在が存在できるのは地獄でしかなかった。イエス様が霊的救いをもたらすことでイエス様に繋がった聖徒達は楽園に存在できる。そうして真の父母による霊肉の救いを受けた食口は地上で天国建設を為すとともに霊界に於ける天国建設を為している。霊界に踏み込み、感情の混沌の中にどこまでも沈んでいけば地獄を見るだろう。混沌の中からイエス様がもたらした愛としての霊的光を拠り所に昇れば楽園を見るだろう。更に、真の父母によってもたらされた真の愛が霊界の太陽として燦々と輝く場所は天国だ。混沌の中をどう通り抜けて行くかは愛の階級に振り分けられたそれぞれの存在の愛の力に拠っている。

今日の想い 395

日本語には日本の民族霊が関与しており、日本語を話すと日本の民族霊が働きかける。英語を話せば英語圏の民族霊が働きかけ、韓国語を話すようになると韓民族の民族霊が生きて働きかける。日本人が世界に出るとき、現地の言語を学びながらその地特有の文化が浸透して心魂が馴染んでくる訳だが、日本人は他の民族圏の人が世界に出て馴染むのとは異なる仕方をしている。私は日本を出て初めて、日本人というアイデンティティーがぼやけていて、日本人としての自分の輪郭がはっきりしていないのを知った。それは人に対するときに出てくる。表面的なことを言えば、どんな人種でも自分を合わせることができる良い面もあるが悪い影響も簡単に受けやすい。しかし表面的なものを剥ぐと曖昧さに安住する自分がいて、種の特質がはっきり表れる者に対する恐れや反発心から距離を置こうとする。年数を或る程度経ると後者の悪い面が顔を出してくる。問題は性質の在り方がどうなるかと言う表面的なことより、本人自身の内面への影響だ。アメリカは自由の国だ。しかし自由への認識は実に重く、言葉は自由という言葉を使いながらも日本的言葉に直すなら自己責任と言った方が当たっている。確かに自由の風は吹いていて、アメリカ英語を使うようになれば開放感は感じるけれども、それと釣り合う見えない責任が確実に存在している。自由を勝ち取る為に多くの血が流されてきたその重さだ。しかし自由の風だけを受けて浮かれてしまい、流された血への責任を認識できずにいると、内面は腐り始める。この地域にも韓国人はたくさんいるけれども、その民族性を日本人の目線から言うなら主体性が強いと言う事だろう。アイデンティティーとしての輪郭がはっきりしている。しかし彼らの歴史的背景や血に流れているものを見なければその特質を正しく捉えることができず、自分を押し通すという悪い面が強調されて認識されがちだ。その表面的性質のみを受け取って白衣民族として沈清、春香、李舜臣の血が流れていることを無視したままでは、内面は何処までも硬化してもろくなる。日本人妻として嫁いだ姉妹たちも、血に流れるものを受け取ろうとしている影で、表面的性質だけの影響を受けて内面硬化している者がいないかどうか心配だが、良くも悪くも日本人としての曖昧さを知る為には、先ず日本から出てみるべきだろう。特に心魂の座っていない浮遊魂は出エジプトすべきだ。

2012年4月17日火曜日

ユダの手紙

しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。(ユダ10)
初代教会時代にも分派をつくって惑わす輩が多くいて、それに打ち勝つように、信仰の為の戦いを励ます為に記された書簡があり、ユダの手紙はそのうちのひとつだ。講論にはユダ6節からの御使いたち(天使)の罪をソドム、ゴモラと同じ淫行の罪だとするところを堕落論では引用していて、その聖句だけは食口はよく知っている。しかし、ユダの手紙によって信仰が力づけられた多くのクリスチャン達の霊を、この手紙全体を心に刻むことで受け取れることはあまり知らない。旧約はメシヤを迎えるための準備を読み手に呼び起こす御言葉であり、新約は再臨主を迎えるための準備を読み手に呼び起こす御言葉だが、再臨主を迎えて新しい真理が出れば役目を終えるというものではない。旧約、新約に流れてきたものが私の意識下に於いて流れていて、それを意識に上らせることで歴史の結実体としての私が御父様に出会う意味がわかるし、成約の御言葉への理解も本物に近付く。今の食口にはクリスチャン達が迫害を乗り越え様々な試練を乗り越えてきた霊的勝利の運勢を受け取らなければ、今の我々の認識と意識だけでは霊的力が足りない。御霊を内面に受け取ったクリスチャン達、特に初代教会の彼らの霊的力を見くびってはならず、彼らの協助を戴いてこそ野生馬のような私の霊界は屈服する。御父様が実体で勝利されたように、私たちも実体で勝利しなければならない。それを真剣に考えれば考えるほど、自分の足りなさ弱さに打ちひしがれるだろう。その時に囁かれるように気付かされるのは、復活したイエス様から御霊を内面に戴いた聖徒達の、幼い私達への力強い協助だ。

2012年4月16日月曜日

或る若い日本料理人

理論的な真理を知らない者であっても、人間が精神的存在であると認識し、人間進化への追求を意志している人もこの世にはいると言うことを知って救われた気がした。それも日本人であり、更に料理人だ。宗教でもなければ哲学でもない、料理を通して人間である自分の精神性を認識し、人間である自分の進化を追及している。私もレストランをやっているから料理は身近な行為だが、彼の料理への真摯な態度を見せられて、私はあまりにも自分を恥ずかしく思った。料理に携わっていると気軽に口にしていた自分に負債さえ覚えた。それ程に彼の料理に対する態度は敬虔と言えるほどであり、霊的高みへ飛翔しようとする意志を見る。一度は真理に触れ霊性を受け取りながらも、時間が経つうちに肉体生活に埋没してしまった者達。彼らは表面的地上的な認識に堕してしまって真理に対する信憑性を疑い始める。真理に問題があるのではなく己の地に堕ちた認識に問題があるのに、それを認めようとしない。そんな者達は彼の爪の垢でも煎じて飲むべきだ。どれ程の霊的背後からの応援があって原理の御言葉に触れ、御父様との因縁を持ち得たか。そして一度はみ旨の道を志すほどでありながら躓いてしまった者達。躓いたのが小石であれ岩であれ、それは言い訳であって躓いた体にして自分の翼を折ってしまった。ルーシェルのように霊的高みに飛翔できる翼を己で折ってしまった。テレビで放送されたのでネットで探せばその番組を見つけることが出来るだろう。敢えて名前や番組名は控えるけれども直ぐに割り出せるはずだ。絶望的だと思った日本の心魂だが、本来悟るべき宗教人の中に見出せなかったものが、思いもしなかった分野で息衝いている。神様は真に神秘的な方法で人間進化を準備される。

2012年4月14日土曜日

新しい信用経済

経済は信用で成り立っている。この一ドル紙幣という紙切れが一ドルとしての価値があるのは、アメリカという国に信用を置いているから価値が成立している。アメリカが崩壊したらただの紙切れだ。金融危機の煽りを受けてアメリカは天文学的なドル量を発行している。勿論輪転機を回すのではなくコンピューターのキイを叩くだけなのだが、発行には違いない。いくら国債を発行してもそれを売れるうちは信用を裏切ることはないが、国債は形だけで中央銀行が買った体にして大量のドルを市場に流せば信用を失う行為になる。最初は恐る恐る市場反応を見ながらやっていたが、今は国としての感覚が麻痺していて何の躊躇もなく放出し続けている。放出すればするほど、ドルという国の血液は薄め続けられる。それを続ければ国としての体は崩壊する。基軸通貨国でさえそういう状況であって、複雑に繋がり合った主要国全てが一蓮托生で崩壊への道を抜け出せないでいる。ディーリングルームのコンピューターで一秒間に数千回も為替が売買されている状況では、既にドルも円もユーロも関わりすぎて、即ち交わりすぎて、国家を担う国体血液としては濁りすぎている。グローバル経済だから世界は既にひとつだと言う者もいるけれど、薄めもし濁りもしている悪血(おけつ)を一つにした身体に循環させても、身体として機能することはない。この崩壊する世界経済を解決する道筋を誰も描けないでいる。救世主の出現は内的霊的世界のみならず、信用経済を成り立たせる為の新しい血液を創造し供給する救世主を必要としている。御父様はアベルUN、カインUNと言われている。アベルUN194カ国、カインUN193カ国。御父様の中に描かれているビジョンがどういうものなのか、霊的な力不足で未だに受け取れないでいるが、アベル国家は新しい血液(新しい通貨)を供給された国家で、カイン国家が生き伸びる為に従うべき国家というのが、薄ぼんやりと見えてくる。それがどういうプロセスになるのかは結果でしかわからないだろうが、御父様のビジョンをより鮮明に見る群れが道筋を決めて行くだろう。

世界を制する為には

確かなビジョンがあると言うことは、創造の八割方がなされたと言っていいだろう。ビジネスではビジョンという言葉をよく使う。しかしビジョンを持てと号令をかけられても、或いはビジョンを持ちたいと思っても、それでビジョンが何も無いところから靄ができて次第にはっきりと形となって現れるような、そんな仕方で浮んでくる訳ではない。確かに熱というか、新しいものへの衝動に突き動かされる状態がビジョンの出発点ではあるだろう。その衝動的な熱が起こりうる状態とはどういう状態か。ビジネスに携わってきた経験上、満足している安定的状況に於いて新しいものへの追求は先ず起こらない。安定期にありながら更に発展的な要素を含んでいて右肩上がりなのは、安定期以前に於いて起こした推進力が惰性的に残っているからだ。しかし遠からず推進力は消え失せて下降線を辿るようになる。下降線を辿り始めてもぬるま湯につかったカエル状態で、下降がなだらかな間は安定的状況だと判断してしまい危機感を感じることはない。潰れる殆どの会社が、さして危機感を覚えることも無く、仕方がないと言いいながら潰れていく。事業を立ち上げた初代は、立ち上げるときの苦労話には尽きないものだが、立ち上げに苦労は必要だと言うのは少し違う。必要なのは苦労ではなく、苦労をものともしない立ち上げへの熱量だろう。ビジョンと言っていいものかどうかは分からないが、生活に困窮する家族が好きなだけ御馳走を頬張る幸せビジョンをありありと描いていて、それが事業立ち上げへの熱量を放出したということだ。今の御時世、食うものには困らないし特別贅沢をしたい訳でもない。経済は明らかに下降線を辿っているけれども安定期が長すぎた為に危機感を覚えないでいる。誰もが、そして多くの会社がぬるま湯状態にある。経済だけではなく、社会が、今の時代そのものがぬるま湯状態と言っていいだろう。そのうちに身を置けないほど煮えたぎる状況を迎える。危機意識をどれだけ発動したかによって、次なる新時代のビジョンが描かれる。危機意識を発動する為には、或る程度の危機状況に陥らなければ危機意識の呼び水にはならない。私の意識が、自分や家庭のこと、ビジネスを取り巻く周辺のことに留まる限り、ぬるま湯がどう変化していくのかを察知することはできない。世界に、宇宙に、私の意識を届けることができて、世界的危機意識、宇宙的危機意識は発動されてそれに耐えうる新しいビジョンが描かれる。ようするにより公的意識に立つものが新しい時代のビジョンを描く。

2012年4月12日木曜日

今日の想い 394

もっと非難轟々となって心の底の醜さを抉り出すような仕方で責められるのかと思ったが、随分みんなスマートだ。アベルカインを持ち出されてえげつない仕打ちを受けてきただろうに。スマートさを保つことで自分は誰かとは違うということだろうか。年数を経れば経るほどに稲穂のように頭を垂れるべきだと誰もが思っている。しかし現実は異なる。清く美しい心魂にダイレクトに向かっていくと思いきや、長ければ長いほど、トラウマになるほど責め立てられた歪みは更に酷くなってきたようだ。しかし醜かろうが汚かろうが全ては自分の内面に沈殿していたものが表出したのであり、通過すべきは通過しないと立ち込める霊の雲の上に抜け出すことは出来ない。昔、先輩がしみじみと、富士山は遠くから見るから美しい、と呟いた。なるほど、とえらく納得したものだ。正直、最前線に立ち続ける期間は短く済まし、できればツバキ圏内から退避して、落ちず離れずの位置まで退いて様子を伺っていたいと思った。信仰は要領と功労だと言い放って開き直った時期もあった。高校生で復帰されて何も知らずにこの世界に飛び込んだので、罪を経験もせずに罪を学んだことは間違っているとも思った。己の馬鹿さ加減に消えてなくなりたいが、それでも霊界の恐ろしさは実感していたので、そのカードで恐喝されながら何とか離れずにここまで来た。自分の意志でここまで来たのかと問われると、成り行きでこうなったと言える部分もある。そのように、反意を呈する人も成り行きでそうなったと言える部分もあるだろう。私に関する限り、信仰があったから内側にいるだとは口が裂けても言えない。しかしそれでも、御父様の元に帰って来るべきだと進言したい。踏ん付けられても蹴られたとしても、それでも真の霊の親だ。彷徨った果てに、どうしても戻りたいと思える故郷があるように、どんな止まり木を見出したとしても所詮濁流に飲まれる流木であって、本当に帰る場所がどこなのかは自分の内面に聞けば一番良くわかるはずだ。祈りぬくこともなくそれを怠って周りを引き摺りこむのは自分を余計に惨めにする。理屈を言えと言うけれど、理屈を尽くして探せるものではないし認めもしないだろう。遡上に載せて切り刻みたいなら好きなだけやって頂ければいい。私を踏み台にして次のステップが踏める人がいるなら、それで十分ありがたい。私に明確なメシヤ観が備わっているとは思っていない。しかし方向は間違っていないという確信がある。それが信仰であって明確なメシヤ観が備われば信仰は必要ない。

春の風

自然と足に力がはいるほどの強い風が、一吹きしては去り、また一吹きしては去って行く。いつもなら気に留めるほどの風ではないが、駐車場から店の裏口までのこの短い距離ですら、風が当たる度に足を止めてしまう。ここのところ暫く続いている股関節の痛みがどうも気になっている。生活に支障を来たすほどの痛みではないし、そのうち引くだろうと高を括っていたのだが、どうも引く気配が無い。痛む場所を庇ってどうしても軽く左足を引き摺る格好になってしまう。そして、この心地よい春の暖かい風にさえ立ち止まる状況に、つい溜息が出てしまった。自分の足がここまで弱ることなど思ってもみなかった。昔から足は丈夫で自信があった。四年前から続けている敬拝の条件も、このままずっと続けていけると思っていた。しかし今はストップがかかっている。条件の無い私が唯一条件と言えるものとして続けていた。当然のように与えられ護られていたものが、失われ不自由になって初めてその有り難さがわかる。歳をとると言うことはひとつひとつ失っていくと言うことだ。失う毎に寂しさを味わいながら、その感情を起こすことでひとつひとつの身体機能への弔いを霊界に送っている。寂しさ有り難さを送ることで、失った身体機能に代わる霊的機能を受け取る手続きをしている。視覚機能に代わる霊視機能だろうか。聴覚機能に代わる霊聴機能だろうか。失うことに執着心をもって恨みを送るのではなく、仕えてくれた感謝の念を強く強く送り、有難い想いが強ければ強いほど霊界での機能はしっかりしたものになる。病を患い健康への有難さが身に染みている者は、霊界ではその想い故に健康体でいられる。春の風が無邪気に私に戯れているのに、どうしてそれを咎めることができるだろうか。刺激される痛みに少し表情が歪むとしても、それでも体を包む風は温かい。

2012年4月11日水曜日

愛の開拓者として

蓄えれば形あるものとして増えてゆき、学べば知識として増えていく、そんな地上的算術が通用しないのが霊界であって、蓄えたり学んだりという外から内に受け取るのとは異なっている。逆に内から外に差し出すことで増えてゆき、差し出す愛の力、為に生きる力が私が活動できる霊的環境を造っていく。この地上でどれほど犠牲的歩みを供えたとしても、それが直接御利益的に受け取れるものとはならない。与えれば与えるほど失っていくのがこの地上の道理であり、犠牲的歩みを供えてもそれが御意に適う本当の精誠と言えるのかどうかを失いながら試される。与えれば地上的なものは失っていくけれど、与えることで収穫するものがあることに現代人は気付いている。それは与えるという行為そのものからくる道徳的満足感だ。現代人はこの満足感を得たいが為に与えている。身近な困っている人へ手を差し伸べることから始まり、災害地域援助や後進国に対する様々なボランティアもそうだろう。譬え目をとめられることはなくても、物に満たされることよりこの満足感に満たされることの方を選ぶ。それはそれで尊い精神であり、イエス様が霊的勝利をされることで地球と人類に浸透した愛の力をそこに見る。しかしその愛の力こそが最高の愛の基準だと信じていて、それ以上の愛はイメージすることもできないでいるが、イエス様が本当に差し出して地上に残したかった真実の愛は今の愛の基準を遥かに超えている。私達は御父様が語られる真の愛という言葉を口にしているが、真の愛の本当の味を知らずに言葉だけを口にしている。真の愛という言葉が生きて働く為には、簡単に言うと、真の愛の本体であられる御父様とひとつになることだ。ひとつになる為には私の肉体生命、心魂生命を超えて、即ち犠牲にしても御父様を重要視する深い帰依が必要であり、それが絶対信仰、絶対愛、絶対服従だ。地上的なものは差し出して当たり前で、道徳的満足感に代表される心魂的愛すらも犠牲にして差し出し、更に私の自我さえも否定して差し出すことで真の愛を相続する。私達は愛の開拓者だ。社会から道徳的に裁かれ、悪のレッテルをはられ、親兄弟からも、更に家庭からさえも否定されながら、それでも人類の先駆となって真の愛の開拓者の道を進んでいる。どんなことがあっても御父様が先導する開拓者の隊列から外れるべきではない。エベレストの最後の絶壁から転げ落ちることは即、死を意味する。摂理の最後の峠から転げ落ちれば最も高かったものが最も低い位置に叩きつけられる。その意味は私達は最高の霊的存在、愛の存在になれる可能性もあり、逆にもっとも恐ろしい地獄を舐めることになるかも知れない。決意と覚悟のない者は、言い訳がましく反論の口を開かずに、静かに消え去った方が身の為だ。

今日の想い 393

子供にとって成長過程それぞれの段階に、親の存在の在り様は強く結び付いている。親は親、子は子としてそれぞれ独立した存在であるけれども、肉体は独立しているようでも心魂は独立してはいない。思春期の子供の心魂形成の重要な時期には特に、親がどういう存在であるかは子供の内面に直結している。父と母の関係性に見る考え方や感じ方、行為も含めて子供の心魂に色濃く影響する。それは子供に取って他人事だと割り切れるものではない。不倫や離婚となると爪痕を残すどころか心魂に大きな闇をつくってしまう。しかしその問題と、真の家庭とを同列に並べてどうこう言うことはできない。その関係性を真の家庭にも宛がえて様々な非難を浴びせるけれども、本然の人間ではない堕落人間が本然の表象、本然へと帰っていく道を指し示せるぐらいなら地上天国は遠の昔に為されていただろう。罪の根源は心魂の境域を越えて、次元の深みの奥に下っていかない限り見届けることはできない。それほど根が深い問題だから、堕落とは関係の無い存在、メシヤが必要なのだ。子供が見たくない親の部分から受け取る生理的嫌悪感に任せたままで、心魂の成長への道は開かれないように、自分の感情に従い霊的領域に至らない心魂表象だけに任せたままで、救いの道が開かれる訳ではない。魂それ自体が病んでいるからだ。肉体が独立しているように私の心も独立していて、他から何の影響も受けるものではないと思っている者が、真の父母を云々言うのは所詮他人事だ。肉体が自然環境から切り離され宇宙の彼方に持っていかれたら存続できないように、心魂を照らし養分を与えて心魂存在として存在たらしめるものに私自身が依拠していることが分かっていない。それさえも認めなくてどうして霊的領域の事柄に話を進めることができるだろうか。結局、自分が堕落の血統を引き継いだ結実体であり、自分の中に厭う堕落性があることを認識できなければ、言葉をいくら尽くしても限度がある。堕落がわからなければ復帰はわからない。復帰が分からなければメシヤの必要性はわからない。メシヤの必要性がわからなければメシヤの路程が理解できるはずが無い。

2012年4月10日火曜日

今日の想い 392

私に取って世間が問題にしている御父様や教会の事が事実がどうかと言うのはある意味どうでもいい。どうでもいいと言い放ったら逃げ腰だとか言動に責任を取らない卑怯者だとかあらゆる雑言の嵐となるが、事実がどうかと言う地上的なことは私の心魂に大きな波風を立てることはない。外的地上的なことがどうでもいい、と言っているのではなく、私の現実は私の内面の動向により左右されていて、事の事実をはっきりさせたり突きつけられること以上にそちらの方が現実味を帯びており関心事だ。御父様や御家庭の過去の事実だとか、教会の非社会的な事だとかが大きな関心事のようだが、そんな事に意識を使ってられない近い未来を目の前にしている。霊界と地上界がひとつになる。それがどういうことなのかは既に述べてきた。それを一言で述べるとするなら、霊的知や無知の度合いによるけれど内面の狂気の世界が訪れると言うことだ。スウェーデンボルグは霊界を探訪して記しているけれど、霊界を証しする使命を受けた立場で超法規的に護られて霊界に参入している。しかし霊界と地上界がひとつになるとき、霊的に護られると思わないほうがいい。霊界法則、霊界事情に尽く万人が影響を受ける。思い描けば即そのイメージを食(は)む霊が押し寄せる。私の正体が何者かでそれに相対する霊が群がる。群がる悪霊雑霊の類に心魂は辟易するだろう。食口ですら私の言動が世迷言のように思えて受け付けない者が多いけれど、D-DAYを越してどうなっていくか皆が検証して見ればいい。霊界を見せられたというのは私でさえその言葉通りには信じられないが、霊界を感じて恐ろしかったという体験を持っている人は私の言葉を理解できるはずだ。祝福を通し、今までの御父様との内外の出会いを通し、戴いて成長させ訓練もしてきた分霊として備わった神霊が、私の中でその光を放ちその力を発揮するのを見るだろう。絶対信仰、絶対愛、絶対服従でしか私の柱としての神霊は支えられない。

今日の想い 391

タイトルが刺激的だと反応は実に大きい。良くも悪くもメシヤという言葉も存在もあらゆるものをかき回す。コメントもたくさん戴いたがひとつひとつに反応していたら自分の身が持たないだろう。それを思うと御父様がメシヤ宣言をされて、敢えて地雷を用意されたのは大胆すぎる。避難の矢面にわざわざ名乗りを上げる存在などそういない。イースターの日曜日、イエス様の復活をお祝いする教会の鐘が聞こえてくる。仕事の都合で教会礼拝には参加できなかったが、近所のキリスト教会の鐘の音を聞きながら、仕事の合間にみ言葉を訓読した。訓読は心の安らぎを与えてくれる時もあるが、痛みを受け取る時の方が多い。今日の訓読は特に言葉のひとつひとつが針のように心に突き刺さる。み言葉が私を裁く。お前は御父様の前に立てるかと霊が迫ってきて身が竦む。人情として、出来ることなら御父様を遠くから眺めていたいし、み言葉の深みを覗くことに躊躇もする。堕落性が、地上的執着が染みついている自分には、時としてその光が苦しくて仕方がない。しかし、それでもみ言葉で焼き尽くされる自分を差し出さなければ本当の私の心魂も生命も生まれないだろう。真のアダムが、地球の、更に宇宙の心魂として、更に生命として生まれて立たなければ、人類の未来も宇宙の未来もないだろう。堕落の心魂を持ったまま生きて行くことが許されれば、肉体を棲家としている一瞬の間は幸せかも知れない。しかし矛盾性を内包したままの存在であることに自我は引き裂かれ、私にそれは耐えられない。それは肉体が引き裂かれる以上の苦痛だ。おそらくそれは実感した者でないと分からない感覚だ。私は幸か不幸かそれを味わう。この体が無くなり、五感がなくなって霊的現実を直視させられるとき、常時その苦痛に襲われ続けることを知っている。メシヤは必要ないと断言して生きることができる人に対して、かわいそうだと思う自分もいるし、羨ましいと思う自分もいる。正直な感想だ。かわいそうだと思うのは、救いと霊的生命が得られることに未だ気付かないでいると言うこと。羨ましいと思うのは、堕落の身にとってはその道が決して容易い道ではないと言うこと。

基本的にブログ日記であって、私自身への語りであり叱咤なのですが、それでも公開することで誰かの役に立つならと思って公開しています。先回のタイトルにはいろんなコメントを戴きありがとうございました。中には心無いものもあって土足で踏み込まれたような気分になったのもありましたが、疑問を呈するにも真摯な姿勢が見えて、反論であっても嬉しいものもありました。いろんな感情が込められたものをそのまま乗せ続けると、反論や議論の行方に目を向ける野次馬ばかりになってしまうので敢えて公開は止めました。

2012年4月9日月曜日

メシヤとしての真偽

この御方がメシヤであるかどうか。御父様に直接尋ねたいというならまだしも、誰かに尋ね、誰かと論議することに何の意味があるのか。メシヤではないという説明にあなたは反論できないからメシヤと認めないと言うなら、メシヤの概念が、否定する者や自分が持っているメシヤのイメージ(或いは意味)とは異なっていると言うだけのことだ。メシヤを否定するのではなく、自分の歪んだメシヤ観を否定すべきだ。だいたい原理のみ言葉を聞いて初めてメシヤという説明を受け理解した者が多いだろうに、その狭い知的な理解度だけで、ましてや説明を受けたその言葉を使って、メシヤ云々を論議することに不自然さを覚えるのは私だけなのだろうか。救いに預かることの渇望、霊的生命を得ることの渇望をその人達に見ることはない。尊敬に値する存在が必要であるなら、道徳を踏まえた人格者と言われる人ならいくらでも見つけられるだろう。メシヤであるなら先ず人格者であるべきだと口を尖らせるが、或る者にとっては人格者と言える存在も別の者にとっては人格者とはならない。少なくとも飢えで死んでいく者が毎日六万人もいるのに、彼らが誰を人格者と敬うのだろうか。地上のことだけが全てでわからない霊界のことは触れずに置く、自分も地上的なだけの存在、それも見える範囲、感じる範囲以外の事は関知すべきではないと決め付けた上で騒ぎ立てているようにさえ思える。わからない霊界での救いは考慮に入れないと最初から決め付けてかかっている。イエス様が生きて歩んでおられた当時、誰がイエス様をメシヤだと認め、誰のその認識を天地が公認しただろうか。それは、イエス様に向かって貴方はメシヤですと口にした弟子達でさえも公認されはしなかった。最終的に弟子たちは十字架に付けられるイエス様と行動を共にはせず、メシヤ観が生死を超えるほどのものではなかった。復活したイエス様に出会って初めてメシヤへの霊的認識は本物になったのであり、生きたイエス様に接している間は霊的フィルターをかけられて覚醒することはなかった。イエス様が来られて、人々はこの人物がメシヤだと地上的に知り、メシヤに従って歩みさえすればそれでよかった、と考えるのは実に子供じみている。知った知らなかったというような地上的判断に委ねられないものがメシヤという認識にはある。メシヤだと宣言される人物を知っているか知っていないか、認めるか認めないかという両極を問うのではなく、この人物の中にどのような精神が生きているかを探求することができ、生死を超えて受け取るに値するものを差出されているという実感を深めて行くことが大切だ。心魂の準備が整った者は、この人がメシヤだと知らされることなしに、自分の救い人類の救いに関与する存在だと見抜く。(何を言っているのかわからない部分があったので加筆しました。)

2012年4月7日土曜日

今日の想い 390

今日という日を笑顔と感謝で生きたい。不安も恐れも抱えたままで、悲しみも憂いも抱えたままで、その上で笑顔と感謝で生きたい。重荷を取り払ってほしいと願うのではなくて、重荷を取り払われたから感謝するのではなくて、重荷を抱えたまま笑顔と感謝で生きたい。重荷を抱えたまま人に笑顔を差出すならその笑顔は本当の笑顔だ。重荷を抱えたまま天に感謝を差出すならその感謝は本当の感謝だ。私の意志としての笑顔であり、私の意志としての感謝だ。私の差し出す愛だ。願われて果たさなければならないことは山積みだけれども、その山をどんなに睨みつけても山は消えない。取り敢えずそこから目を離して、先ず笑顔と感謝を取り戻したい。笑顔は人に差出す愛の始点。感謝は天に差し出す愛の始点。複雑で迷ったら先ず始点に帰ること。だから、先ず笑顔と感謝を取り戻す。今日という日を笑顔と感謝で生きる。取り戻して再度、願われ果たすべきことに目を向けていけばいい。山積みにされて塩漬けにされ、厄介事としか見えなかったものが、愛の側面を少しずつ見せるようになる。願われたことが押し付けではなく、私に下さった神様のソンムルとして認められるようになる。過ぎてみれば愛であったと話される御父様は、霊界と地上界をひとつにされて、私達のこれからの歩みは過ぎてみなくとも愛だと受け取れるほどになっている。与えることが、為に生きることが、愛することが、ますます歓びになってくる。私達は為に生きることを歓びとする存在になってくる。私が笑顔を差出すことで、相手は自分が笑顔の存在であることに気付く。感謝を差出すことで先祖を始めとする霊界は、感謝しされる存在であることに気付く。それは愛を伝播する真の愛の伝道だ。

2012年4月6日金曜日

知の側面から

救いや解放が観念的で漠然としたままでは救いも解放も私とは関係がない。神様も霊界も漠然としたままでは堕落的な地上存在のままであり、永遠に生きる何の基盤も環境圏も地上で作ることはできない。私達は霊的無知であることを先ずはっきり知るべきだ。無知の知を受け入れた者が本質的一歩を踏み出せるのであり、自分の霊的無知を棚に上げておいて、救いや解放と何の関係もない圏外にはじき出されたまま、如何なる主張も主義も虚しいだけだ。御父様の願われる人類一家族理想は決してヒューマニズム的なものではない。神様を迎えた人類一家族、地球村であり、神様を事実迎える為には人類の霊的無知が克服されなければならないのであり、漠然とした神様でありながらも「神様の下の」と言い表すことに何の意味もなく、相変わらずヒューマニズム的な理想にすぎない。原理で学んだ神様も霊界も自分は知っており言葉で説明もできるし認識もしている、と言う。しかしどれ程言葉を尽くしても地上的知と霊的知の間にある底なしの溝は埋まらない。霊的無知は知らないことさえも知らないという無知であり、私が理解した原理への認識も、足がかりとしての取り敢えずの認識であって、御父様の中にある霊的知として燦然と輝く原理とは異なる。しかし何も知らない私達を子としてかき抱かれる御父様であり、霊的無知を霊的知がかき抱くことで知に至る道がある。唯一私達が取るべき態度は、無知の知の自覚をもって、抱かれる御父様を全面的に素直に受け入れることだ。それが絶対信仰だ。私の中にあるあらゆる地上的知がしがらみとなり邪魔となって、サタンに抱かれている部分がありその決別は決して容易いものではないけれど、サタンに抱かれている部分さえも抱かれる御父様だとわかった時、固い結び目が次第に解けてくる。漆黒の夜に夜明けが音もなく訪れるように、霊的無知に知の光がさしてくる。

2012年4月5日木曜日

今日の想い 389

近い未来に予測し得ることを思い描き、自分の身の振り方をその思い描いた未来に合わせて決めていく。それ以外の選択は盲目的だと思っているのだろう。近い未来に起こり得ること。御父様のX-Day、お墨付きを失った教会の指示、既に孕んでいる不和の表面化、食口達の彷徨い、とこのように見えるらしい。確かに御父様のX-Dayがあることは、霊界に行かれる日があることを御自身の言葉で何度も伝えておられるのでその通りだ。しかし御身体を消されて私達が五感で受け取ることはなくなっても、存在し続けられることは間違いない。御父様のいない地上世界が、御父様の指示もなく影響もない世界になると踏んでいるようだけれど、それはないだろう。しかし指示や及ぼされる影響がどんな形になるかを今問うことは、生きて歩んでおられる御父様への侮辱だ。私達は地上的な自分の将来を予測し、そこに重心を置いて歩むようには御父様は願われないし、そう訓練されてもいない。自分や自分の家庭の将来だけを見図ろうとすることに自己中心的在り様を見るし、先ず、公的全体的なことが優先されるべきは徹底して訓練されてきたはずだ。彼らの言い分には自己中心的な意志が巧妙に隠されている。X-Day後を見込み、混乱するであろう状態にあっても自分なりの理想を失わないぞという自分基点の信仰を形成して、今の信仰認識の将来的な安定基盤を用意している。信仰に安逸を求めると信仰は形骸化してしまう。信仰という蓑(みの)をまとった自己の安住の設定だ。その為には担ぎあげる神輿の存在がどうしても必要であり、必要だから担ぎあげたのであり、神輿の存在の御為を思って担ぎあげた訳ではない。人格を高く認めるとしても神輿として担ぎ上げれば、その陰に隠れて自分の本当の正体が見えなくなる。御父様という天宙的歴史的太陽のもとでは、自分の正体は影もなくあからさまに照らされるけれども、誰かを担ぎあげることは自分の中に照らされたくないものがあると言う話になってくる。私が言葉を尽くすことに、言葉で武装する彼らに取っては攻撃としか受け取らないだろうが、御父様の胸に釘を打ちつけておいてどんな理想論も虚しく聞こえる。

2012年4月2日月曜日

さくらフェスティバル

環状線の外回りを南下して、ポトマック川に架かる橋の手前で降りる。環状線の下を潜るとポトマック川の東側に走るキャナルロードに繋がり、その道を南東に下っていく。その名の通りキャナル、要するに運河だが、ポトマック川は急流や濁流が多い為に川に沿う形で運河を作り、ワシントンのジョージタウンから200キロ近く離れたカンバーランドまで運搬交通手段として使われていた。今はポトマック川と運河に挟まれた馬車が通っていた道がジョギングコースになっていて、地元の人が走ったり散歩したりしている。その光景を右に見ながら車を走らせると、前方にワシントンモニュメントの先端が見えてきて次第に全体を現わしてくる。暫く周囲は林に覆われたまま走るので、ワシントンDCのど真ん中にあるはずのモニュメントが現れた時は驚かされる。周りの景色が開けてDCからバージニアへと川を渡るキイブリッジが見渡せると、DCの中心地はもう目の前だ。キイブリッジを渡ってくる車で道は急にごった返してくる。人と車が溢れる休日のジョージタウンを抜けると、石造りの重厚な建物が並ぶ官公庁街に入っていく。桜祭りのオープニングセレモニーでマグロの解体ショーをやるというので駆り出された。ホワイトハウスにほど近い建物のセキュリティーを受けて地下に駐車すると建物内にある会場に向かった。すし用のシャリを準備するよう言付かって350人分を用意して持っていった。桜はとっくに散り青葉がしっかり覆っているのに、桜祭りというのも可笑しいなと来る道すがら思いながら、それでも日米友好親善に大きく貢献しているならいいことだ。私を入れてボストンとニューヨークから八人のすしシェフが集まった。その人員数は良しとしても、既に氷の上にディスプレイされていた魚のネタの量を見て、果たして十分だろうかと心配した。準備したシャリは十分でもネタが無くなればどうしようもない。案の定、始まると350人がどっと押し寄せて、ものの半時間でネタ切れとなった。チャリティーと言っても参加者は70ドル、100ドル以上の参加費を払っている。無くなって大騒動になるのかと思いきや、会場の中心に設えられた簡易すしカウンターに群がっていた人々は残念そうな顔をしながらも、肩をすぼめながら散らばっていった。シェフも一様に笑顔で売り切れを伝えれば、それで誰も納得する。この辺のアメリカ的な許容と、いい加減さが実にいい。日本ではひと騒ぎあるところだろう。口に入れるのは諦めて談笑に花を咲かせる人々の間をすり抜け、帰宅に着いた。地下駐車場を出て夕闇のDCにアクセルを踏むと、前方にライトアップされたキャピトルのドームが山のようにせり出していた。やはりアメリカは大きい。受け入れる器も大きいが建物もどでかい。

2012年を走る。

日中は汗ばむほどの暖かさが続いて、桜の木は緑を装う為に一斉に咲いた花を散り急がせ、一夜のうちに薄桃色は若葉色に取って変えられた。そうまで急がねばならない理由を尋ねても、なかなか答えてくれる訳ではないが、花咲く思春期を遠の昔に送った身としては幾らか残念だ。思春期にのみ受け取るあの甘い感情を、花の中に埋もれることで彷彿とさせられるのは、唯一花の天幕に覆われる事ができる桜の花の季節ぐらいだろう。甘く切ないという表現がその通りであるように、甘さに溜息の漏れ、切なさに涙も流れる思春期の凝縮した感情は、新たな心魂の芽ぶきを予感させられる。心魂を新たにした者だけに、時の霊として見せるそれぞれの年の様相を開いてくれる。毎年同じような景色を自然の中に見ながらも、しかし確実に異なる新しい景色を開いてくれる。2013年の大きな天宙的規模の転換期を前に、あらゆるものが急がれ、季節の移り変わりの中にさえ焦りが見えるようだ。2012年という時の霊の思春期は一気に駆け抜けた。終末観が人それぞれに用意されてはきたが、ここに来て全ての人類が一斉に終末的様相の急流になだれ込んでいく。2013年のD-Dayは人類のナイアガラの滝、歴史のナイアガラの滝に突入する。今年の春は花が咲くと同時に若葉も芽生えた。いつもなら時を違えてそれぞれの花が咲き始め、次第次第に若葉色が広がっていくが、今年の春は全てがほぼ同時的になるほど急がれているようだ。日本に暫くいたが、逆に日本は春が随分遅く、終末的流れに逆らっているのか或いは躊躇しているかのように思えた。入国時は暖かかったが、田舎では大雪に見舞われたり寒い日が続いていた。アメリカにしろ日本にしろ、異常気象と一括りにして現象の細部を見ようとはしないけれど、現象として現れるには必ず背後があり、意志があり、時の霊や土地の霊、様々な霊的存在の意志がぶつかりせめぎ合い、そして和合していく過程を見ている。しかし大きな歴史的天宙的大潮流にはどんな霊的存在も逆らえない。自然も宇宙も、集中的にこの大転換期に急いで準備しているように、私達も立ち止っている場合ではない。思考も感情も、そして意志もフル稼働させながら、私が準備すべき事柄を優先順位で為していく。

2012年4月1日日曜日

一笑に付される話として

霊界と地上界は益々接近し、私の内面の在り様が外界である事情圏環境圏に即日現れる。時間と共に流れる外界の事情圏環境圏先ずありきで、それに対処しながら生きてきた今までの対象圏の位置ではなく、私自身が外界を先導する主体圏の位置に立つ。私が主体圏の位置に立つ場合、私が何者なのかを私自身から問われることになる。おかしい言い方になるけれども私が私自身を把握できずに主体にはなれない。私は何者か、という問いは、私はどこから出て来たか、であり、主体として立たせらる私自身は或る主体の対象としての位置を確立しない限り主体には立てない。主体には立てないのに主体圏の位置に立たざるを得ないと言うことは何を意味するか。それは自己が幾つにも引き裂かれることであり自己の破滅を意味する。今までは如何様にも好きなように自分という存在を解釈してきたし、矛盾性を孕んだままでも地上界で統一的姿で生きることはできた。しかしこれからは赦しがない。私がどういう存在かということがそのまま地上的な現れ方をする。矛盾性を孕んでいれば矛盾性を産んでしまい私の存在としてしまう。角(つの)が生える人間が生まれるかも知れないと言えば笑われてしまうが、決してあり得ないことではない。私は真の父母の子なのかサタンの子なのかを問われ、サタンの血を引くならサタンも幾つかの悪鬼の面妖な類に分かれるように、悪魔的堕落存在としてのそれぞれの突出した在り様を、顔面様相、肉体様相、行動様相に見るようになるだろう。もはや神の似姿としての均整のとれた統一的身体を保持しながら堕落的内面を保持することはできなくなる。この近未来への見通しが当たっていないとすれば、摂理は基元節を超えて大幅に延長されたと言うことだ。