2013年9月28日土曜日

外的器としての人間創造過程

頭脳神経系の創造が先ず為されたのであり、原初人間として頭脳神経系だけを持った人間存在が先ず登場した。霊がいつ吹き込まれ、いつ心魂存在になったかはここでは問わない。頭脳神経系人間の創造と同じ時期に創造されたのが原初の蝶の存在だ。蝶の本質は光にある。先ず光が創造されたのであり光を担う存在が蝶であり、蝶は光の生命体としての形状化だ。光の内的な本質は記憶だ。記憶という光の内的本質を担う為に神経系人間の創造が先ず為された。現在の神経系の原初を人間創造の最初に見る。そして光が濃密化されて空気の創造が為され、空気を担う存在として鳥の創造が為された。頭脳神経系が思考できるのは内的光の記憶と内的空気の思考によるもので、同じ空気要素で創造された鳥は空気を担う存在であり、現在の鳥はその翼に本質があって宇宙の思考の外的現れであると言える。空気が更に濃密化する過程で呼吸器系、循環器系が創造されて、頭脳神経系、呼吸器系、循環器系を備えた人間が現れた。同じ時期に創造されたのがライオンに代表される高等動物であり、ライオンやトラの本質は呼吸器循環器系の胸にある。さらに水から土に濃密化される過程で牛が創造されるのであり、牛は土の内的本質、つまり消化を担う存在の形状化だ。消化器系動物の代表が牛だけれども、ミミズや蛙なども消化器系動物に括られ、原初の牛、原初のミミズや蛙が創造される同じ時期に人間も消化器系を備えた。よって人間の外的創造は頭部、胸部、腹部の順番になる。アメーバから下等動物、そして高等動物から猿になり人間になったのではない。妻はミミズや蛙や蛇がテレビのスクリーンに現れると目を逸らして毛嫌いしているが、内臓の消化器官とそれらの消化器系動物とはその本質は同じだ。土の本質を担い見事に消化するそれらの存在を見ながら、感心し畏敬の感情を持つのが当然であるのに、毛嫌いするから土の本質を避けてしまって消化器系が悪くなる。

進化論

神は信じるけれども、人間創造の過程は進化論に準ずるものではないかと思っている食口は意外に多い。外的な創造に関することに限られるが、人間も霊が吹き込まれるまでは猿と同じ進化路程を辿ってきたはずだと言うものだ。み言葉は、凹凸が合わさり生殖が為されるのにそこに第三存在が介入することはあり得ないし、凹凸の愛の門がアメーバから人間まで何万種もあるのにどうやって越えることができるのかと問いかけるけれども、愛の門を越えるのに神が働いたと捉えられないだろうかと安易にも思っている。神が働いてアメーバから人間まで発展してきたという理解に何の矛盾も覚えないでいる。環境に応じながら突然変異的に発展してきたのではなく、神の意志が先ずあって発展してきたが、アメーバから人間までの外的発展路程はアダムエバから私までの血が繋がっている如く原因結果として一本の線で繋がっているという理解だ。進化論は信じないと言うがアメーバから様々な下等動物、高等動物へと枝分かれした進化の木のイメージが概念としてある。それは既に進化論だ。そこに神の意志があろうがなかろうが進化論だ。それでは人間創造の過程はなくて、瞬時に人間が創造されたのかと問い返されるけれども、勿論人間創造の過程はある。しかしアメーバから人間へと創造過程を取ったのではない。み言葉を正しく受け取るなら進化の木は完全に否定すべきだ。光、空気、水、土全ての生命要素が出揃った地球環境で生命存在が創造され始めたのではなく、生命要素の創造と同時に生命存在も創造されていった。進化論に準ずる概念だと、人間始祖までの人間創造は下等動物的人間から高等動物的人間へ、即ち消化器系だけを持ったミミズのような発展段階、それから呼吸器循環器系が付け加えられた発展段階、そして神経系が付け加えられ頭脳を備えられた発展段階へとなるのだろうが、事実は逆だ。光要素を創造されながら先ず頭脳神経系を、そして空気要素水要素を創造されながら呼吸器循環器系が備わり、そして土要素を創造されながら消化器系が備わった。だから人間創造が先ず始まったのであり、呼吸器循環器系を備える段階で高等動物の創造が始まり、消化器系だけのミミズや蛇や蛙といった下等動物は後期の創造になる。勿論高等動物も下等動物も、地球環境が完全に出揃った今の存在様相とは随分異なり、より霊的存在に近いものであったことは付け加えておかないと誤解を生むだろう。人間が被造物の全てを統合した存在であるけれども種の違いは厳格であることは、この理解でこそ成り立つのであって、進化の木として枝分かれしたのであれば猿と人間の種の違いは殆どない。

2013年9月27日金曜日

ハイエナ論理

ハイエナ論理というのがある。スロット攻略の話ではない。獅子とハイエナと狼がいて、一匹の獲物を捕らえた。獅子はハイエナに分配を頼み、獲物を三等分してそれぞれ受け取ろうと提案した。ところが獅子はハイエナを噛み殺してしまった。そして今度は狼に分配を頼んだ。狼は獲物の三分の一のハイエナ分は獅子がハイエナを片付けてくれたのだから獅子が取るべきで、獅子の分はもともとそうなのだから獅子が取るべきで、残りの狼の自分の分は獅子を尊敬しているので獅子が取るべきだと言って三等分した。獅子は狼を噛み殺さずに三等分の論理に従って三つの部分を受け取った。これがハイエナ論理で、同じ三等分の論理でも別の現実に適用できるというものだ。異なる現実への適用によって結果が全く違ってくる。食口の殆どは原理を知ってこの道に来たのだから、入口は原理という論理の門をくぐって入ってきた。なかには神霊体験、聖霊体験、或いは先祖が夢に現れてというような体験を通してこの道を決意した食口もいるが少数派だろう。神霊派食口では晒されることのない論理の試練、思考の試練が論理の門をくぐって入った真理派食口には待ち構えている。入り口は論理の門であっても、歩む路程で御父様との心情因縁を結びながら、論理(思考)から心情へとそのステージを高めるなら、論理の試練、思考の試練は試練とも言えないものだけれども、固定概念というものを基底に置いていて、そこを崩すなど思っても見ないものだから論理の試練で躓くことになる。独島竹島問題にしても、韓国は韓国で言い分がある。日本は日本でまた言い分がある。言い分とはそれぞれの論理だ。国際司法裁判所を持ち出すのは日本の論理であるけれども、韓国の論理は裁判所が図り知れない遥か昔の事実を主張する。どちらの論理が正しいかという以前に現実がある。それは獅子がどの国でハイエナがどの国かという現実、もし日本がハイエナなら狼にならなければならない現実があるということだ。日本がどれほど理路整然と正義を立てても、一体何処の国が、損を蒙るにも関わらず日本の論理を正しいと受け入れるのだろうか。そんな国は何処にも無い。それは、現実に対して論理は意味を為さないと言うのが論理の位置付けではなく、現実に対して論理を合わせることで論理が意味を持ち力を発すると言うことだ。食口が陥る論理の試練は霊界の事実を認識し、霊的無知の知に至り、霊的死を自分にもたらす罪という現実を先ず知らなければ越えられないし、知ってその現実に論理を合わせることで見えなかったものが見えてくる。現実が見えないのに(霊界がわからない、救いがわからない現実)、そういう者に限ってもっともらしい言い分や論理を立ててくる。私の中に論理を立てようとする思考と、その論理とは相容れない沸々と湧いてくる感情と、その狭間で選択する意志とがある。私の中にハイエナと獅子が戦い、狼が傍で様子を見ている。

今日の想い 633

雲ひとつ無い青空が広がり乾いた風が頬を撫でる。夏を追いやって秋がやってきた。青空を眺めていると高く遠くに黒い点が移動するのが目に入った。ゆっくりと旋回している。目が慣れてくると広げた翼が確認できて、それが鷲だとわかった。澄み渡った青空高く、地上のことなど無縁のように、おそらく地上で得たいと思う自由など比べようもない大気の自由圏で泳いでいる。人間は空への憧れがある。地上に光を届け、雨を降らせ、風を起こし、そして人間の気分を精神的な高みへと向かわせる存在が空に、大気の中に存在している。ただ空高く飛んでみたいという憧れを越えて、その存在達に会いたい憧れがある。その見えない霊的な存在はより神様に近い位階の存在に違いなく、その霊的存在達を尋ね歩き(尋ね飛び)より高みの事実を受け取りたい。空への無意識な憧れは意識下の本質的欲求の表れだ。人間が小宇宙であれば、被造物のあらゆる要素を人間の中に見るはずだ。外的に見るだろうし内的にも見る。鷲が自由に空高く舞うように、人間の自由は思考にある。思考として内的世界を空高く舞う。内的な思考への形成力は、この被造世界で外的に翼を形成した力、とりわけ鷲の翼を形成した力と同じはずだ。思考の自由が感情の解放をもたらし、そして自由意志の存在になる。唯物的な、物質的機械的な真理の一面だけ信奉して生きれば、自由のつもりが実は枷となって個性完成を阻んでしまう。唯物論を越えて、進化論を越えて、凹凸の二性で四方に展開され創造されたこの創造の原理であるけれども、物質的機械的な基底概念で創造原理を捉えようとする現代人の悲しさがある。結局は思考が唯物的な思考形態の枷にはめられて、創造原理を創造原理として捉えられない。思考の力を、創造本然の本来の力とする為に、あの鷲の翼に学ばなければならない。創造原理が確かに論理的だという理由だけで受け取るならば、それは原理のみ言葉を理解しようとはしていない。創造原理を真に理解した者は、霊界の実存を悟る。霊的存在達を見る。

2013年9月24日火曜日

今日の想い 632

夫婦の合徳は、夫が天の位置に立ち妻が地の位置に立って天地が合徳するのであり、更に夫は全ての男性を代表し全ての陽性を代表した立場であり、妻は全ての女性を代表し全ての陰性を代表した立場で合徳する。しかしながら完成基準に立っていない二人が体を合わせても、地上の感覚的満足を越えて神霊が下って地とひとつになるほどの秘儀的祭壇とはならない。堕落によって人間の体自体も個形物質化してしまったけれども、本然の人間の愛の行為は光輝くのであり、温度が何度まで上がるのか忘れたが御父様は凹の温度上昇を固体人間に取っては物理的には考えられないほどの温度数値を口にされた。それはもう愛による身体昇華と言ってもいいだろう。それは夫を満足させ妻を満足させるというような感覚的なものを越えている。この地上は真の父母が勝利されて真の父母としての使命は完成完結完了されたけれども、地上における実体的再創造は始まったばかりであり、それは人間身体の改造も始まったということだ。人間には病も含めて、堕落し、人間身体が固体化した故の副作用がある。内的な蕩減という問題があるから固体化した人間の外的な病という形を取らざるを得なかったけれども、固体化しなければ病の作用力は本来、熱上昇、すなわち昇華の力や生命体や物質への奇跡的力であったはずだ。堕落することによってどうして人間身体が固体化したかは、他体自覚であるべき意識が自体自覚意識となり、すなわち自己中心的意識が人間身体の在り様さえも密度の濃い固体化へと向かわせたということだ。身体改造、改革が具体的にどう為されていくのかはわからないが、今の身体的在り様が輪郭は同じだとしても本然の状態と全く同じだとは思わない。超感覚意識、即ち物質肉体に封印されていた霊感が解放されるに従い、天地が一つになって神霊を地上に受け取る、本来の合徳の意味を私達は知るようになるだろう。

2013年9月23日月曜日

今日の想い 631

祝福を受けた男女であっても、この世の男女関係でも、横的な愛は横的な愛だ。縦的な愛を立てて、縦的な愛に合わせて横的な愛の関係を築くのか、縦軸を無視するか曖昧にしたままで横的な愛の関係に入るのかの違いがあるけれども、それでも横的な愛は横的な愛だ。祝福家庭の夫婦関係が、横的な愛として花開いているかどうかは、二世にも影響するだろうしこの世の人達が祝福を受けたいと思える動機にもなる。縦的な愛を無視できないのでこの関係を維持しなければならないという縛り先行で、横的な愛、天の願う夫婦関係が本当に築けるだろうか。横的な愛に限って見た場合、この世の愛の関係性の方がより花開いているとは言えないだろうか。もちろん咲けばいい、咲いて直ぐ散るにしてもまた咲かせればいいとは言えないことは承知した上での問いだけれども、この世の愛の花の方が魅惑的であることは確かだ。取って食べてはならないという戒めの期間を越えれば、戒めはとけて、食べることを許される。しかし祝福家庭として絶対性に立てば、相対者以外から取って食べることは勿論許されない。それは解かれることのない戒めとして私達の中にある。しかしこの戒めは夫婦の横的関係がうまくいかず、横的な愛として花開かないが故の横的愛の渇望からくる戒めであって、天国の門が開かないから楽園や中間霊界が現れたように、本来横的愛が花開けば現れる必要のない戒めであることは察しが付く。私の中にこの戒めがあることは、未だ完成基準に届かない人格であり、それは縦的愛の関係が歪であり横的愛が正しく垂直の位置で為されないか、或いは横的愛の重要性をどちらかが無視している場合もあるだろう。夫婦の愛が横的愛として花開いていないということだ。ティピカル(通常の)な男性食口はどこか世捨て人的な部分があり、女性食口はどこか美の対象であることを捨てた部分がある。この世的に言うとダサい、魅力がない。ダサい男と魅力のない女のカップル、これが本当に祝福の証しになるのかどうか一度考えてみた方がいい。縦的愛は主体であり横的愛は対象であるけれども、横的愛の刺激で縦的愛をより深めることができる。

2013年9月20日金曜日

今日の想い 630

御父母様を片時も離さずしっかりと引き付けて歩むべきだ。罪意識故に距離を置いたり、或いは御父母様のツバキ圏内では翻弄されるからとわざわざ距離を置いたり、み旨を歩みながらも意識の隅に持ち続けていた習慣的なマイナス感情が邪魔をして、後天時代に入っても相変わらず距離を置いている。それは御父母様と心情の因縁を結ぶことにはならない。御父母様との距離を感ぜずにはおれないとしても、距離を置いた位置で仕方なく安住するのではなく、御父母様の関心事を敢えて創り出してでも、御父母様を私に近付ける意志を強くしなければならない。今日の一日、片時も御父母様を忘れずに、語りかけもし聞き耳を立てながら歩んできただろうか。一日の全ての体験が、御父様の心情を尋ねる意識の量りにかけられただろうか。何一つ偶然的な出会いはなく、何一つ意味なく御父様との関係性のない出来事はない。習慣的な一日のサイクルであっても、それはリズムが同じなだけであって体験は全く異なる。何を学ばせようとしているのか、何の意味があるのか、掴み取りたい一心で噛み付かんばかりに御父母様を引き付けるべきだ。祈祷も習慣的惰性的であるなら、そんな適当な祈祷を立ててわざわざ御父様への意志を力ないものに括るべきではない。生活即祈祷生活であるべきで、御父母様を片時も離さずしっかりと引き付けて尋ねる姿勢は祈祷そのものだ。祭壇の御前の祈祷は総括祈祷であって、総括祈祷は祈祷生活あってのことだろう。来る日も来る日も、御父母様を片時も離さず引き付けて歩めば、御父様の心情の欠片のひとつでも差し出されないことがあるだろうか。求める者には応えなければならない親としての道理は、御父母様が最も熟知しておられるはずだ。

今日の想い 629

み言葉を受け入れみ旨の道に来れたのは、先祖の功労に拠るところより、御父様との、或いは御父様と縁のある先輩食口との、何がしかの縁があってのことであり、その縁に御父様の払われた犠牲の条件が供わって導かれている。この道に来れたのは先祖の功労に拠るものだと言われてきたが、勿論その部分もあるだろうが、そうであるならどうして食口は癌になる確率が多く、どうして貧困に喘ぎ、どうして苦労の多い生活になるのだろうか。功労があるなら、この世の者たち以上に元気で、この世の者たち以上に富み、誰よりも幸せな生活を送るべきではないだろうか。そうなると私達は功労の薄い者達だと言える。よく食べよく生きる人生、運勢のある人生とは言えないだろう。36家庭の先生や、御父様に直接侍る位置で歩んでこられた諸先輩家庭は、確かに特別の功労と縁があって導かれている。しかし、一世として、御父様と共に歩んできた私達の多くは、功労少なく7代を通して積み上げられた清算すべき蕩減が多いから、それ故に先んじて選ばれたと見るべきだろう。蕩減すべきもの多くてもこの道に来れない者は五万といる。その中で出会って歩めることについては確かに功労ゆえだろう。功労の少ない者が功労の多い者を伝道するとなると、伝道される側の先祖は福を貰うのではなく福をあげる事になるので伝道される時を待つと言う。だから伝道は難しい。そうなると功労を量って伝道すればいいものだが、功労以上に御父様への精誠が事態を動かすということであり、だから私達はどこまでも精誠を供えていく。愛といっても私達は感覚的なものを越えた愛の関係を求めている。真の愛の概念は一般的愛の概念からは遠く、どちらかと言うと犠牲の概念により近いだろう。真の愛の何たるかはわからずとも、犠牲的歩みの中でこそ真の愛の本質を受け取るようになる。それを思うと、下手に功労があって運勢のある人生を送らない方が、真の愛の本質に近付けることになる。功労を持てずに生まれたことが、御父様に出会うことで功労以上の功労を備えることができたと見るべきだ。そういう私達は未だ犠牲の道の途上にある。過去ほどの迫害や批難はなくとも、どれほど天の勝利圏は築かれようとも、それでも私達は犠牲の途上にある。それは犠牲をして歩んできたものが体に染みついているからだ。要するに私達は貧乏くさい。もはや犠牲の期間を終えて、投入すれば投入した分だけ結果が得られる時代圏に入ってはいるが、貧乏圏に隔離された意識のままでは富裕圏に入り込めない。意識変革には或る程度の時間が必要だろう。それでも時代は確実に変革している。めまぐるしく動く社会情勢、あらゆる価値が一日をして大きく上下する今、その混乱の中から頭角を現すのが統一の群れだ。霊的に見ると白い衣を纏った群れが地上世界を席巻していく。蕩減のない時代とは罪の清算を先送りできる時代ではなく、抱えたものを即審判される時代だ。

今日の想い 628

人間を霊界へ誕生させる為の宇宙の胎が地球なら、宇宙の凹凸は何だろうか。霊人の父は誰で、母は誰だろうか。そう問えば直ぐにも返ってくる答えがある。地上で私の父母はこの人だと認識していると同じように、霊界で霊人としての私の父母はこの方ですと言える存在が真の父母だろう。真の父母が宇宙の凹凸だ。真の父母の凹凸の一体圏から霊人としての私は生まれた。地上で御父母様にお会いし、地上で御父母様との心情因縁を結んだ。お会いしたことが霊的意味で父を知り母を知ることになる為には、御父母様との心情因縁を生命を越えて大切にしなければ私は御父母様から生まれなかったことになる。地上で日を重ね年を重ねるほどに心情因縁は深くならなければならない。御父様が聖和されて、霊界におられる御父様は、霊界から私に親の愛を投入しておられる。眠りの深み、無意識圏で投入しておられる。御父様を強く慕うことで、無意識圏の御父様の愛が意識圏に上がってきて、訳もわからず涙する。意識の欠片でも眠りの深みに持ち込めば、御父様の表象を夢として受け取れる。地上には御母様がおられる。御母様は地上という意識圏で母の愛を投入しておられる。御母様の母の愛は霊的な母の愛、聖霊による愛だ。母の胎、宇宙の胎の中に包み込まれる愛だ。神様の結婚式、天の御父様と天の御母様の結婚式がなされて、私達は真の御母様の新生胎の中で育っている。それに合わせて今、地球は先天時代とは異なる後天時代として、新生地球の上に立っている。足する地球の土台が先天時代とは全く異なっている。御母様の新生胎、宇宙の新生胎の只中にいる。どれほど御父様を否定し、御母様を否定しようとも、無意識にも足場は御母様の胎の中にある。そうであれば否定しようにも否定する程に自らの存在自体を否定しなければならなくなる。地上実体としては地上の一点にも満たない御母様の存在であっても、地球を包み込み、宇宙にその生命体を広げておられる。

2013年9月18日水曜日

今日の想い 627

死守すべきは絶対性であり、あらゆる感覚的誘惑から絶対性を守らなければならない。しかしそれは、感覚的なものから自分を隔離することではない。性の要求を中心としてみた場合、宗教は否定して否定して、ひたすら否定することで感覚世界を越えた精神的満足を追求してきた。しかし科学は逆にひたすら肯定することで感覚世界への満足を追求してきた。衣食住を満足させ、さらに感覚的満足を満たしてくれる現代文化は、科学の発展なしにはあり得ないし、科学の発展の動機の中には、性への要求を満たしたい衝動が見えない深みで働いている。英雄色を好むと言うけれど、英雄に限らず殆どの一財をなした人物には、色への強い衝動が動機の中にある。インターネットがここまで発達した背景にも色への要求が大きく影響している。宗教一辺倒でもない科学一辺倒でもない、宗教と科学をひとつにして理想世界の実現を標榜するのが私達のスタンスではあるけれども、それをただ漠然と捉えていてもひとつにする何の力も及ぼさないだろう。押し寄せる感覚的誘惑を否定し、ひたすら抗う一生を送るとしても、それでみ旨への貢献を認められるかというとそれはないはずで、み旨の為にはこの世を屈服させる環境要件も私達には願われている。この世を屈服させる為には地位名誉財産といった外的に見上げるものも必要であり、外的に見上げるものを得ようとすれば感覚的なものへの要求をどう自分の中で発動させるかだ。感覚的誘惑にはまらずに感覚的要求をどう発動させるかだ。教会の食口は良くも悪くも欲が無い。欲が無ければ地位名誉財産とは無縁だ。万物の木の前でひたすらお願いするなら、自分の中に万物への追及欲が出ることを先ずお願いすべきだ。欲のない意識状態を変えずに一攫千金が舞い込むなどと思わない方がいい。個性完成は地位名誉欲が関わり、子女繁殖は性欲が関わり、万物主管は財欲が関わっている。それらの欲をどう主管して感覚的誘惑にはまらずに感覚的要求を発動させ、三大祝福を全うする力とするかが問われている。欲がない人間になることが願われているのではなく、欲は持つべきであり、それをどう主管するかが問われている。性の要求を中心としてみた場合、否定しブレーキをかけることも勿論必要だが、その衝動をどうみ旨に活かせるかを問うのはそれ以上に大切だ。

2013年9月15日日曜日

今日の想い 626

若くしてこの道に来たので全てを捧げて献身とは言っても、実際捧げるものも否定すべき思い入れもなくて、今思えば軽い選択だった。ただひとつ私に対する親の想いを蔑ろしたことは確かで、それは私にとって確かに苦しい選択だったが、私が内的イサク献祭をしたというより親が条件を立ててくれたと言った方が当たっている。しかし多くの食口は捧げるものも否定すべき思い入れも多く、この道を選ぶことは重い選択だったはずだ。更に、全てを捧げてこの道にきて、次から次へと立てられる摂理路程に投入しながら、路程を越える毎に内的な新たなステージに立てると信じて来たはずだ。しかし余りにも忙しい摂理だったために、路程を越える毎にすべきだった内的総括が、個人に於いても全体に於いても為されなかった。自分の中に節目節目で内的総括が為されなければ、一体私の中に何が残ったのか、何が復帰されたのか、何が築かれたのかがわからない。残っている内的霊的事実は確実にあっても認識できなければ何も残っていない錯覚に陥る。認識する為には内的総括が大切だ。献金。確かに献金が大切であることはわかっている。しかし献金先ず在りき、心情(精誠)が伴わなくともみ言葉が無くとも、献金が条件となって侍る生活に代えられた時代は既に過ぎ去った。献金摂理に於いて願われた姿勢は確かにあったけれども、その路程を踏み越えてきた今、確実に立つべきステージがある。それがかつての歩みのように、皆が一糸乱れず同じ行動をとって前進するものだとは思えない。勿論母の国としての願いがあるはずだが、その行動様式まで組織的に枷に嵌めるものではないだろう。全体に於いても、個人的にも、立つべきステージを内的総括によって照らし出さなければ、御父様が聖和されたことによる暗闇に投げ込まれたまま、混乱の度を深めて行くことになる。確かに教会は混乱の中にあることは否定できない。しかし問題は私の内的混乱であり、内的混乱をどう収拾するかだ。私が立てば教会は立つ。所詮信仰が無いからと言い放って、その一言で内的総括を怠れば、どうして御父様から相続したものを私の中に見出すことができるだろうか。

2013年9月12日木曜日

今日の想い 625

心情という言葉は実に重い言葉だ。心情主義だと掲げれば、私の事情や感情を優先しないどころか否定してまでも、より高次の願いや想いを自分の願いや想いとして生きることになる。個人を否定しても家庭、家庭を否定しても氏族、氏族を否定しても国家、という風に、より公的な願いや想いを優先する。そう説明すると思考でしか受け止めないけれども、心情が重い言葉だと言うのは、思考では把握できない領域、思考では動かすことが出来ない重い愛の波長、犠牲的愛の波長で綴られるものが、心情という言葉に表わされるからだ。私達が愛という言葉を使うとき、それが博愛や親の愛のような見返りを望まない愛であっても、心情の領域にまで至る愛となると私達の愛の概念を越えている。敢えて真の愛という言葉を使って私達の愛の概念に留まらない愛、心情に至る愛を表現しているいるけれども、真の父母によって開かれた心情世界は真の愛の磁力が及ぶ真の愛の磁場圏として広大なる宇宙さえも包み込んでいる。私が心と体があるように、宇宙という外的現われの背後には原因的な心に変わるものが必ず存在している。私が思考感情意志の存在であるように、宇宙にも思考が働き感情が働き意志が必ず働いている。それをどこまでも機械的自然、機械的宇宙として、宇宙心魂が働く原因存在を否定するなら、自分自身の思考や感情や意志も幻想に過ぎず、確かに存在するのは肉の塊だけになってしまう。認める認めざるにかかわらずそれは唯物主義だ。無神論を信奉する唯物主義だ。それはこの宇宙創造に何らかの力が働いたことを信じて当然だとしても、それが機械的力に留まる限りは唯物的神でそれは神とは言わない。力は意志なくしては作用しない。宇宙秩序への力が崩れることなく作用しているのは意志が働いていることを認めて当然だ。自然に何々する、と言う言い方は実に誤解を生む言い方だ。そこにはこの地球の自然が何の意志もなく動いていることを当然とし、前提としている意味合いが含まれている。自然にも当然意志が働いている。このひと吹きの風にも、このひと雨にも、朝に日が昇り夕に沈むのも、打ち寄せる波の一つ一つに、何一つとして意志のない動きなどない。私が生まれるにも生まれさせる意志があり、私が死ぬにも意志が働く。勿論、生を維持するにも意志が働いている。何一つ意志が働いていないという意味での自然に、、という作用はない。それが理解できれば呼吸する一つ一つにさえも、空気を存在させている意志への感謝が込められる。生存を支え、心魂を満たしてくれる自然の存在は、その背後に犠牲的愛に貫かれた意志存在がある。犠牲的愛で生かされている私は、心情主義に立って生きるのでなければ、犠牲を食い物にするだけの獣にも劣る存在だ。

2013年9月11日水曜日

今日の想い 624

一つの仮定として、創造理想完成は人類に於いて真の父母を立てることであり、神様が天宙で最高の位置として立てられた人類ヒエラルキーで真の父母を立てることが何よりも優先されたのであり、よって人間世界に次ぐ天使世界は男性性だけの世界として、女性性は真の父母が立つまでは創造されないのではないか、と言うふうに立てることができる。ようするに愛にも秩序があって、秩序を無視した真の愛はなく、神様の縦的真の愛による創造として打ち寄せる波は真の父母を立てる為であり、打ち寄せた波が引いて行くのは真の父母の横的真の愛をして引いて行く。引いて行く過程で、真の父母による真の愛の天使世界祝福が引き寄せる波として覆われると言うことだ。そうなると真の父母は人類の真の父母であると共に、天宙の真の父母であると、よって当然天使世界の真の父母でもある。天使長ルーシェルは真の父母が立つのを待って、真の父母が天使長を祝福して相対を下さるのを待つべき立場にあった。しかしルーシェルはあろうことか真の母になるべき存在、エバをそそのかして自分の相対に立ててしまった、と言うことになる。愛の秩序を無視したことになる。霊的事実は時空を越えた事実であるから、過去の過ぎ去った事実ではなく現行の事実だと言うことができる。霊的感性が完全に開かれれば霊的事実を見るわけだけれども、血統一体圏が私であれば私の存在の核、即ち私自身が堕落に関与しており、人類始祖から私まで線を引いた、血統上のあらゆる出来事が私の存在の在り様となっている。霊的無知の地上意識としては、私が個として血統圏から解放されたかのように生きているし、蕩減としてかかる血統的に繋がれたものを見ないのであれば地上の目に映る色と欲の世界が人間にとっての全てだろう。人類始祖からの血統一体圏の私だと認識して、敢えて罪とその清算を念頭にする塞ぎ込むような地上生活を送るのは私達だけだろう。その私達も、救い主に教えられてその事実を知ったのであり、知って地上生活の本来の意味するところを歩んでいるのであり、そして未だわからない多くの無知を抱えながらも、不信を抱かず真の父母に従い歩むことで霊的な私、すなわち血統一体圏の私を真の父母の中心にアラインさせながら治療している。真の父母に正しく出会わない者は、地上生活という一瞬の刹那を生き、無限大の宇宙の中の針の先にも満たない場で色と欲に生きている。創造理想への宇宙の波が完全に打ち寄せるまで行かずに、その途上で堕落してしまって頓挫した、そのいつ崩れさるかも知れない波間の刹那に生きている。真の父母に繋がれた私達は、知ると知らずに関わらず、真の愛の引き波で人類と万物と地球と宇宙と霊界の隅々までを覆い行く、先行的群れの指導的位置で権能を行使していくようになる。もし人類が真の愛の引き波に抗うなら、万物が、地球が先に感化されて、引き波は更に大きくなるだろうし、そうなれば人類はその生命をも犠牲にして真の愛の引き波に流されるだろう。私達はこれから真の御母様の権能を見る。天のお母様の恐ろしい力を見る。

今日の想い 623

霊的堕落と肉的堕落、霊的堕落はルーシェルとエバとの関係による堕落であり、肉的堕落はエバとアダムの関係による堕落だ。霊的堕落に関しては動機や経路が事細かに説明されていて、霊的なことは不案内であっても理解はできる。しかし肉的堕落に関しては事細かにと言えるほどの状況説明がない。個人的感覚としては随分簡単にエバの言いなりになったアダムの稚拙ささえ伺えるようだ。先の投稿で振れた「み言の証」の中に堕落の経路について説明された御父様の御話が載っている。そこには、エバがアダムのところに行って一緒に食べようと言ったが、アダムは神様が取って食べるなと言われたとエバの誘いを拒否した。(どれくらい拒否したかは言及されていない) しかしエバがしつこくねだりせがむので、「えーい、勝手にしろ」と言って体を投げ出した、とある。原理講論にはない、その時のアダムの感情が伺える御父様の貴重な御話ではあるが、しかしそれでも、アダムの、謂わば単純細胞的な軽さが(男性本能的軽さが、)肉的堕落には想像されてどうも合点がいかない。更に言うと、アダムがもし堕落しないで最後まで拒んだなら、エバはその場で復帰することができたとまで話されている。それほど重要な判断を要する場面で、「えーい、勝手にしろ」とは何とも短絡的で嘆かわしい限りだと思えて仕方が無い。アダムも誘惑されて堕落したので同罪であるように思えるが、時ならぬ時の行為であってももともとエバはアダムの相対の位置に立つべきであったので、肉的堕落にのみ関係したアダムよりは霊的堕落に関係したエバの方が罪が大きいと説明できるけれども、心情という観点からしてエバの方がアダムよりも神様の心情を痛めた、蹂躙したということだと思う。単純にアダムよりはエバへの思い入れの方がより大きかったのだと思う。堕落論によって原罪は明確に説明されたけれども、その詳細に関しては益々疑問が増える。それは霊的内容を地上的に理解しようとする無理から来るものなのか、「み言の証」で付け加えられて説明されているように語られていない詳細の部分が残されているからなのか、その両方なのかもわからない。天使長は霊的存在であるけれども、霊的堕落の事実が証明しているように、男性の位置で女性のエバと関係が持てるように創造されている。天使世界には男性性しか創造されなかったのはどういう理由からなのか、人間との霊的堕落の可能性を持つ天使創造がどうして為されたのか、聞きたいことは山ほどあるのだけれども御父様はおられない。「み言の証」のような、先輩家庭の先生達の証しは本当に貴重だ。

2013年9月10日火曜日

今日の想い 622

原理講論を読むと謙譲語が多く使われている。神様は神様ではなく神と記されてはいるが「中和的存在としておられ」るのであり、「いまし給う」のであり、そのように神様の記述に関しては謙譲語が用いられている。特に日本語にあるような謙譲語だとか尊敬語だとかの表現方法は、科学的認識でなければ真理ではないという唯物論に則した教育環境で洗脳された人間には、そういった表現方法自体が胡散臭い。天を見上げる感情、高次の精神存在に対する畏怖の感情が育たない限り、どんなに理論理屈で神を証明し、霊界を証明しても彼らの根底に受け入れる素地はない。すなわち終末感に襲われ、科学万能主義に立って来たもののそれがどれ程無力で死の前にあっては意味を為さないものかを実感した者しか神様を求めないし、霊界を求めない。み言葉を受け入れ、御父様をメシヤとして認識した兄弟でさえも、意外と畏怖の感情への嫌気感が抜けきれず、自分の良心基準では量れなかったり、理解していた認識が裏切られたりすると、途端に手の平を返したような態度に出て教会に反するようになる。心情に対する正しい認識を持っていない。心情と自分の良心基準とを混同している。この世の者達が御父様を受け入れないように、兄弟達も御母様を受け入れない。そう言うと白い目で見られてしまうだろうか。今、特に私達が問われて試練されているのが、御母様に対する気分であり感情だ。御父様に対しては、どんなことがあってもこの御方について行こうと本人が納得しているのでここまで着いてこれたが、御母様に対しては御父様が先ず在りきでおられたのであって、御父様が聖和されて以降、御母様へ向かう気分や感情が浮いたままになっている。御父様が霊界でどうしておられるのだろうか、と言うような関心よりは、御母様がどうみ旨に向かわれようとしているのか、と言った関心の方がより重要だ。見えない神様を恰も見て会って意見を伺って来たかのように、御父様は周りの策略に嵌っておられて神様の願いに事実上添えておられない、と判断したグループ派と同じように、さも聖和されて肉体を持たれない御父様の今の今の願いを熟知しているかのように、御母様への距離を置いた意見が当然のように為されることは、御母様を真の御母様と認めた立場には無い。今はこれまでの惰性で御母様にもついて行っているような感覚でいるけれども、時間が経てば経つほどに御母様に対する冷めた見方を自分の中に見るだろうし、そうなれば次第に離れて行ってしまう。訓読の重要性はその通りだけれども、訓読しながら御父様を求めて求めて、それで実体を持たれている御母様へ向かう気持ちや感情が同じように付いてくるのかどうか。私が肉体を持ち、この地上に天国建設するのであれば、実体を持たれる御母様に実体で侍ることが最優先されるはずだ。

2013年9月8日日曜日

今日の想い 621

36家庭の先生の「み言の証」という本がある。原理を学べば理性的人間として当然の疑問があれこれと出てくるものだが、その先生は御父母様の御側で侍られながら、他の御方にすれば御父母様に失礼に当たると思えるような質問であっても敢えて尋ねてこられた、謂わば伺いたい本音の言葉、突っ込んだ言葉が、珠玉のように原理のみ言に沿う形で記されていて、み言葉への理解を助けてくれる。更に、こう尋ねたらこうお答えになったと言うように、恰(あたか)も御父様が私の前におられてお答えになるような印象を覚え、聖和されて寂しさを覚える中にあっても、この本を通してお会いできるようで暖かいものを覚えた。どれ一つ取っても乗り出すような関心を誘う証しだけれども、その中のひとつに「私たちが知るべき天のお母様」というのがあって、御母様が立たれておられる今、この証しは御母様に対する新しい信仰姿勢を私達が見出す意味で、皆が知るべきだと思った。御母様の重要性は今に始まったことではないけれども、私達の御母様に対する重要性の認識が、必ずこれからの歩みを実のあるものにしていくはずだ。今は天の御父様と祈祷で呼びかけるのではなく、天の父母様と呼びかける。ただ、神様を天の御父様と呼んでいたのが変わっただけだと、さして深い意味を問うこともなく天の父母様と祈祷しているけれども、それには天の御母様という認識が先ず無ければならないし、その認識があって天の父母様となる。勿論、天の御母様という正しい認識を持てる為にはそれなりの期間も必要であり、み言葉に学ぶ必要もあり、そして深く尋ねることも必要で、手の平を返したようには行かないが、この天の御母様という認識、そして天の父母様という認識がこれからの歩みに大きな実をもたらすことは確かだ。天の御父様に尋ねることで受け取ったものがあると言えるように、天の御母様に尋ねて受け取ったものがこれだと言えるような証しを、私達は数多く持たなければならない。

今日の想い 620

御父様は、人間が霊肉を持つ存在であるように、教会を立てられると同時に事業も立てられた。伝道(牧会)と経済の両輪が大切であることを十分に理解されて、どちらにも力を入れてこられたけれども、教会がアベルで主体的位置であり、そして事業がカインで対象的位置であることはずっと変わりが無い。事業の中でも水産事業は御父様の特別な思い入れがある事業の一つであり、よって水産事業の拠点であるアメリカに、たくさんの食口を日本から集められて事業基盤を築かれたけれども、しかし水産事業であってもやはり教会に対してカインの位置にあることははっきりしている。水産事業の総会に御父様が来られた時、み言葉を戴いたことがあるが、事業はカインの位置にあることを得々と説明されて私達に念を押された。事業分野は教会に比べて発展し易い。事業はこの世の社会が受け入れる土俵で活動するのだから発展するのは当たり前だ。いや、発展して当たり前だ。しかし或る程度発展して結果を出せるようになると、途端に傲慢気分が覗いてきて教会が発展しないのを批判し始める。或いは教会から離れ始める。事業に携わる者が貢献してきたほどの貢献を教会の食口達に見出せないと意見する。牧会者と事業者はその土俵が違うのであり、事業者が投入する苦労や精誠と同じ精神基準を投入しても、教会発展としては砂地に水をまくようなものだろう。だからその点を理解してカインの位置で教会を支えないと、御父様の願いには応えられない。今のこういう状況だからこそ、僅かな歪が一大事になるのであり、カインの本分をわきまえて出しゃばらず、しかし支えていく姿勢が必要になる。事業をやっていると給料として貰うのは当たり前だという感覚があるけれども、牧会者は献金から幾らかの生活費を戴いているのであって、給料を貰っているのではない。敢えて生臭いことを言うなら、給料はいくらでも貰えるけれども、生活費として支給される額は限られているということだ。牧会者の生活費が自分の貰う給料より高いという場合は牧会者側の問題ではなくて、自分の事業への貢献度が低いから給与額が少ないという自分の問題だ。給料としていくらでも貰える位置にあるのに、実力が無いため僅かな収入しかなく、よって献金は更に僅かしか出来ないとなると、自分は恥ずかしいカインだと思わなければならない。

2013年9月6日金曜日

今日の想い 619

聖和一周年追慕式で、御母様を拝見すると御父様が重なって見えるような印象を覚えた者はけっして少なくないはずだ。それは御父様の面影を御母様に見たいという想いから来ていると言う者もいるけれども、しかしそう納得するには、御父様の横におられた御母様を何度も拝見してきた印象からすると、その重みのあるたたずまい、視線の奥にあるもの、表情の晴れやかさ等、何を取ってしても明らかに御父様の印象が前面に出ておられていて、御父様が御母様の中におられると表現した方が最も的を得ている。御父様が突然聖和されて、全てが宙に投げ出されたようで、一体どうなるものだろうかとその不安を隠しきれなかったけれども、今となれば見事に着地されて、後天時代に相応しく実体的天一国建設を踏み出されたと言える。特に、平和大使の話しを聞かれる御母様の表情が何とも印象深かった。平和大使の追慕の辞は御父母様に対する私達の決意を強く促すすばらしいものだったけれども、目を輝かせて視線を送られる、その何とも暖かいものをスクリーンからでも受け取られて、かつての聖霊体験の時受け取ったあの同じ暖かく包み込まれた同じ感情が湧いてきて、自然と目頭が熱くなった。聖霊実体であられる御母様をこの時ほど感じたことは無かった。聖書に記されているペンテコステは異常ささえ感じられるけれども、私達のペンテコステは御母様が温かくも包み込まれて、静かにしてしかし確実に聖霊として、私達の中に、天一国建設の活動の中に浸透していく力として働く。女性神をますます御母様の中に見て行くことだろう。それはあまりにも不思議であり、あまりにも力強く美しく、思考を越え感情を越えた女性神の威信が伺える。かつては、責任者達が御前でお美しい御母様と表現されるのをワザとらしく思えて舌打ちしかねないほどだったけれども、今となれば確かにその表現は間違っていないなと思われてくる。

今日の想い 618

細胞と細胞が相争うことなく共存して、或る器官の形成力、形成維持力を持つ為の細胞間に働く力は何だろうか。器官と器官が相争うことなく共存して、生命個体として活動する力を持つ為の器官と器官の間に働く力とは何だろうか。生命個体を形成している全ての細胞からは同じDNAが検出される。さらにそれぞれの器官系には器官系毎に検出されるDNAに準ずるものが刻印されている。そうでなければ器官として分化はできないはずだ。DNAのブループリントに沿って、或いはDNAに準ずるブループリントに沿ってひとつになった細胞間に働く力は、細胞を産み出した母細胞を中心として兄弟細胞が授受作用による一体不可分の関係性で形成力、形成維持力を得ている。人間に限らず固体形成の次元では、寸分の狂いもなく形成力が発動されている。にも拘わらず、天国という創造理想に対しては、そのDNAを人間という天国細胞に正しく刻印されてはいない。細胞は細胞内に父の部分と母の部分がある中和的存在だ。細胞分化は細胞内の父の部分が母の部分を通して分化が始まる。真の母であられる御母様は御母様の中に御父様が立っておられる。御母様の中におられる御父様が御母様を通して天国細胞を分化していかれる。それぞれの祝福中心家庭は天国細胞の一つであると同時に、心情という核を持った天国DNAを刻印されている。天国細胞である祝福中心家庭のそれぞれは真の母の胎から出た兄弟関係、カインアベル関係にある。天国細胞が天国細胞として共存し一体化する為には、真の母を中心としなければ異常細胞として淘汰されざるを得ないだろう。真の母を中心としなければ天国形成力、天国形成維持力は得られない。私達の一体化は真の母、御母様を中心としなければあり得ない話だ。御母様への批判を口にして憚(はばか)らない者は、異常細胞として扱われて、天宙から排除されてしまうだろう。み言葉の改悪などと、恐れも知らずに書き残す彼らの本当の動機を、彼ら自身ですら把握してはいない。それは御母様に対する間違った認識、或いは御母様が周りの者にいいように扱われていると言うような御母様を象徴的存在ぐらいにしか思っていない真の母の意味が全くわからないことからくる、無意識の霊的混乱がその動機となっている。

今日の想い 617

まだまだ御母様の重要性に対する認識が不十分だと声を大にして言いたい。御父様が聖和されて地上にはおられないから、だから御母様が代わりとなられて、、という御父様の代理としての認識を御母様に対して持っているはずだ。その認識も間違っているとは思わないが、しかしその認識以上に大切なのは、御母様は真の母であられ聖霊実体であられるということだ。御父様は実体み言であられ、ロゴス(み言)の神であられるようにロゴスの実体として立っておられる。神様が性相の位置で形状としてのアダムとエバを中心とする天宙を創造されたように、実体み言の御父様が性相の位置で形状としての御母様を中心とするカインアベル一体の地上天上天国を創建される。み言葉を実体化する為には御母様抜きではあり得ない。御父様は御母様を真の母として立てる為に来られたとも言えるし、更に、御父様も御母様によって御父様足り得た、御母様によって御父様も勝利の御父様となり得たと言える。御母様は2020年という目標地点を私達に与えられたけれども、私が心配する次元を遥かに越えた位置で、み言葉を実体化する、即ち地上天国のブループリントと天国建設のシナリオは明確に御父様の天国の種を宿した御母様の中に存在している。それは考えとして持っておられるというような次元ではなくて、女性が精子という種を胎に孕んで人間を産み出すというような、そんな天国実体化への天宙的妊娠力、天宙的出産力を持っておられるとでも説明したらいいだろうか。御母様を人間的にしか捉えられない者はこれからの天国建設の過程を明確にその目にして驚くだろう。御母様は御父様の種、天国という実の種を戴いて、天国を妊娠し、出産されるはずだ。祝福中心家庭は既に受精卵が細胞分裂していった天国の基礎細胞に等しい。天宙が霊肉の人間様相を呈しているように、そして宇宙が人間形態の様相を呈しているように、天国もまた人間の様相を呈している。祝福中心家庭はその中心器官になっていく。

今日の想い 616

ブログのコメントの遣り取りを見ながら、否定的な兄弟にどう間違っているかを説明するにも、既に論理では無理があると思われた。否定派肯定派両者のステージが既に異なっている。同じ言葉でも異なる言葉として受け取る。霊界を信じていると言っても、正しく信じようとしている場合と間違った認識の場合と二通りある。正しく信じようとしている方向性ではあっても未来的に完全な霊的知に至るのであって、今という時の断片での認識には間違った部分もあることは認めなければならない。しかしそれでも霊的無知から霊的知に至る正しい方向性にあれば、その人にとっての霊的背景、霊的環境が既に協助体制にある。霊的背景、霊的環境が異なる二人が同じ言葉を使って遣り取りしようとしても、全くかみ合わないという場合が出てくる。特に地上界霊界の壁が取り払われた後天時代はその傾向が益々顕著になってくる。み言葉は霊的な言葉だ。食口の間で同じみ言葉で教育を受けたにも拘らず、以前には無かった捉え方の違い、認識の違いが起こってきたのは、壁が取り払われて霊界がダイレクトに影響を与えるからだ。それぞれで背負っている霊界が異なるからだ。特に情報解放社会となって、教会の実情、御家庭の実情、御父様の過去の事実などがあからさまに遣り取りされるようになると、それが避けられないひとつの後天時代という解放的時代の意味でもあるけれど、そう言った不信を抱く情報も含んだ全てを知ることで、霊界を正しく認識する、み言葉を正しく理解することに拍車をかけるようになる場合と、それとは全く逆に、情報によって自分の中に起こる否定的感情を中心として霊界の認識、み言葉の理解を自分の受け入れられる限定的範囲に留めてしまう場合とが起こる。その場合結局は自己を否定できず自己中心的な志向感情意志に向かわざるを得なくなる。御父様の描く理想世界、御父様の描く地上天上天国ではなく、自分の描く理想世界、自分の描く地上天上天国だ。しかしそんな理想世界、そんな地上天上天国が存在するかどうか、あるいは存在させることができるかどうかは、極めて疑問だ。そこまでの創造性、創造力が本当に己にあるなら、第二の神になれる。創造された存在でありながらも創造神になれる。突き詰めて思考すればそこまで行き着くはずだけれども、おそらく、そんな深い思考による発言ではなく、只の感情に委ねた熟慮のない発言であって、まともに対すれば足を引っ張られるだけだ。

2013年9月3日火曜日

今日の想い 615

妻は一日おきに透析に通っている。管に繋がれたまま4時間、座ったままでひたすら終るのを待ち続ける。血液の流れを外に出してフィルターにかけるのだが、毒素だけろ過できる訳ではない。血液を分離機にかけて血液中の水分を取り出す。そうすることで、水分にふくまれるている老廃物もいくらか取り出せるという理屈だ。血液のろ過装置である腎臓の代替だが、無理して水分を取り出すので血圧の昇降が激しく、以前腹膜透析に移る前に血液透析をしていた時も何度か気を失った。6年前に移植して、その戴いた臓器が弱くなった。今回、体調が悪化して、医者が再度の透析の必要性を告げたとき、彼女は相当落ち込んだ。血液透析だけは何としても避けたいと前から口にしていた。人にもよるだろうが透析のために体調が安定せず、吐き気や眩暈など気分が悪いときの方が多いらしい。透析はそれで良くなるというものではなく、ただの延命措置に過ぎない。体調の不良を代償に、ひたすら生き延びることだけを手に入れる。透析が始まると、ソーシャルワーカーが相談を受けに来る。先ず、遺書を残したいならその手配を手伝うということ。そして、本人が死にたいと思っているかどうかを確認すること。その二点の相談に来る。アメリカでも透析に入る患者は多い。彼女のように急激な高血圧が原因というのは少ない方で、糖尿からくる腎不全から透析に入る患者が圧倒的に多い。透析に入るまでに病に翻弄されていて、既に精神的に相当弱っている。生き続けたいという力を失いつつある。だから透析という延命措置を避けて、そのままで自然死を選ぶ患者も意外に多い。透析をストップすれば1週間を待たずに昏睡状態に陥り、そのまま息絶える。それは患者の判断に任せられる。更に医者も患者に確認する。透析中に心臓が停止した場合、そのまま放置して欲しいのか、それともショックを与えてでも生き返らして欲しいのか。透析センターは、生と死の狭間にある人達が寄り集まる。一歩踏み出せば死への境界線を越える人達が、息を潜めながら座って並んでいる。み言葉を伝えたいのは山々だけれども、生きる力の弱い厭世感情に覆われた人達には、神の言葉や仏の言葉であってもその感情が先ず受け付けない。担当ナースも、当たり障りの無い短い挨拶だけかけると、あとは静かにひたすら終るのを待っている。

2013年9月2日月曜日

今日の想い 614

私が入教した頃の兄弟達は皆輝いていた。私も彼らのように輝きたいと思った。そして自分の親兄弟にも輝いている兄弟姉妹達に会って欲しいと思った。み言葉が入るかどうかは疑問だったけれども、彼らに会えば親は納得するだろうし、妹も弟も入教するはずだと信じていた。あの当時の輝きはいつ頃から失せていったのだろうか。皆が二十代という青年で、地区長ですら26歳の若さだった。あの若さの集まりが輝きを見せたのだろうか。だから年と共に輝きを失ったということだろうか。円字を組み、拳を振り上げ、声も張り上げて青年の木や成和青年歌を歌ったあの力強さ。皆が床を叩き、涙ながらに訴え、家が事実揺れた全体祈祷のどよめき。ヤクザ顔負けの勝共活動の派手な証しや興味深い霊的体験の証しで食事の場はいつも盛り上がった。そして会えない御父様の香りを少しでも味わいたいと必死で中心者の話に喰らいついた。今思うと訳もわからずに満たされていた。若い、スポンジのような求める心魂を、満たして余りあるほどの内的恩恵がいつも与えられていた。信仰に燃え、自身に満ち、希望と理想に溢れていたあの輝きに吸い寄せられるように、伝道は進んでいくはずだと思った。そうしてそのまま地上天国になっていくと信じていた。しかし経済復帰が願われ、献金摂理に突入すれば突入するほど内的な輝きは消え失せていった。輝きは真理と神霊に拠るものであり内的復興をもたらしより輝くけれども、地上的なもの、すなわち物を求めて内的な輝きは復帰に投入されていった。確かに地上的な実績、まとまった献金額が要求されて内的復興から外的復帰に移っていった。だから私達は輝きを失い、光を放たなくなってしまったのだろうか。摂理故に私達は内的なものを犠牲にしてきたのだろうか。もちろん御父様に繋がる(接木される)ことで存在としての霊的核は戴いたのであり、救われた事実は私の中では否定のしようがないけれども、霊的な核がそのまま心魂様相に影響を与える訳ではない。復帰の過程で一度は心魂の枯渇を甘受しなければならなかったのかも知れない。確かに堕落的な自我に根ざした全ての心魂内容を枯渇させ、そうした自己を一端否定しなければ、真の愛の祝福による霊的な核が芽を出し祝福の木の実体として成長していくことは困難だとわかる。私達は堕落的なものを一掃されて、祝福家庭本来の心魂の輝きを取り戻そうとしている。初期教会に象徴的に見出されていたあの内的輝きを、80歳にしてカナン地球星に着地された御父様と共に着地した私達は、あの心魂の輝きを新たな次元で取り戻し輝き増すはずだ。

今日の想い 613

正式にはまだ裁判に入ってはいないが、証人喚問は既に行われていて実質的には裁判状態にある。対TRUEWORLDとの戦いは丸3年の月日を経て佳境に入り、文字通り正念場を迎えようとしている。関係者それぞれに思いや考えはあるだろうけれども、たとえこの裁判をすること自体に頭を傾げる者がいたとしても否応なく戦いに臨まなければならない。病に冒されたら病と闘わなければならないし、家に乱暴者が侵入してきたら闘わなければならない。同じことだ。更に戦いは、私達に大義名分があると信じていても、守る位置ではなく攻勢の位置で臨まなければ、戦いには勝てない。勝利の女神は攻勢の位置でこそ微笑む。一般の信仰者的感覚だと闘うことを良しとしないという判断や気分があり、食口の多くもそうだと思う。しかし相反する方向性が生じ双方が自分が正しいと善の位置を主張するなら、それは闘わざるを得ない。悪の位置で教会財産を奪い、我が物顔で使っているのに、闘うことを辞退すれば自分は正しくない位置だったと認めることになる。既に私達は私という固体の中で心と体が闘っている状態だけれども、その認識の薄い者にかぎって、戦うという言葉に対して拒否反応を示し易い。上辺の平和主義者たちの何とも夢見がちな、自己査察が徹底されない、結局は媚を売ることになる彼らは、未来のことではない今の気持ち、更に人の感情ではない自分の感情が大切だという個人感情至上主義者といってもいいかも知れない。だから私達は上っ面の平和主義者、理想主義者とははっきりと線を引いて、真の平和を求め、真の理想を求めるが故に敢えて戦う。戦う以上は意識の多くをそこに奪われるし、緊張感で疲弊もし、具体的な戦闘費用だって多額だ。日常生活の領域にも、伝道や氏族復帰、献金にさえ影響を及ぼすだろう。いろんな理由を並べて戦うことから逃げようとする自分が少しでもいるなら、そこにこそ集中砲火を浴びせる意味でも戦う意志を強くすべきだ。対UCIの戦いも同じだ。精誠のこもった大切な献金が莫大な裁判費用に無駄に使われている?では何に使われたら精誠として生きるのか。捉え方が全く逆だ。それほどに大切な裁判だからこそ、それなりの精誠をそこに投入する。そう理解して当然だろうに、この裁判はみ旨とは関係の無い事柄だと勝手に決め付けてかかって、正義ぶって意見する。自分の認識が正しいとする傲慢さが正義の服を着ていい気になっているようで気持ち悪い。