2009年1月20日火曜日
今日の想い 43
御父様がこの地上を去られた時の、自分の感情を想像できるだろうか。魂の拠りどころを失った自分は生きて時を旅して行けるだろうか。かつて自分は自分の存在の拠りどころを見つけることができす、自己存在が砕け散りそうな空しさの極致を垣間見た事がある。どう気持ちを吹っ切ろうとしても不安と恐怖が益々大きくなり、このまま放って置けば間違いなく正気を失うと思った。御父様に繋がっている自分だという絶対的信頼があって、喜びが喜びであり悲しみが悲しみであり、怒りも切なさも全ての感情活動が活き活きとしていた。御父様に出会い、御父様を御父様と呼べる自分を見出し、御父様に繋がる糸をしっかりと手繰り寄せながら、赤子が何の不安も心配もなく母の胸に抱かれるように、御父様の自分への愛の全き信頼の中で魂を培うことができた。お父様がやがてこの地上を去ってしまう事など話としてはあっても全く信じてはいなかった。自分に取ってありえないことだった。しかし最近、そのありえないことが遠からず来ることを解らせようとする瞬間が時々ある。そうなったら自分はどうなるのだろうと立ち止まり思いを廻らす時がある。その認識のないままに、いつまでも今の在り様が続くことを疑わず、あまりにも甘え通しで時を過ごしてきた。自分には御父様が去られて尚、独り立ちできるほどに魂の成長はしていない。その時が来る事を無邪気にも認めず、嫌だ嫌だと叫びながら試練を遠ざけ、やがて来る時の何の準備も為されず、そして御父様に対する今の自分の中には甘えしか見出せない。御父様、大丈夫ですと言えるだけのものは自分には無い。感情を織り成す魂が拠りどころを失い、美味しいものを美味しいと感じる感情を取り戻せるだろうか。拠りどころを失った魂の抜け殻で、相対に接し子供に接する事ができるだろうか。外界のあらゆる脅威に曝され、昔のように心を閉ざして生きた死人と化すのだろうか。安らぎの世界に入ろうとされるその時でさえ、裾を掴んで泣き喚くに違いない自分は、大親不幸者に違いない。
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2 件のコメント:
その日の準備を。
ぼくも、そう思います。
最近は年のせいか涙もろくて、子供にはその内オムツが必要になると言われています。
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