2010年5月30日日曜日

今日の想い 174

外が白み始め、アパートの部屋の大窓に見慣れた景色が映し出されていく。だんだんと時間を追う毎にその輪郭を現し、色合いも徐々に鮮明になっていく。しかし木々の緑が生きていることの証しを立てるのは、太陽が東の空に姿を現し、朝一番の光を直接届ける時だ。それまでは眠っていて息吹は感じられないそれらが、光を受けた途端に息を吹き返す。朝日を受けて輝く木々の葉の緑は美しい。仕事柄、陽が既に高くなってから目覚めることの方が多いけれど、陽が上らぬうちに起床し、内面にまで溶けて浸み込みそうな柔らかい緑に触れ、自分自身も届けられたばかりの朝日を浴びるなら、一日の恵みの大半は受け取ったことになる。登ったばかりの太陽を直視しながら、私の内面に語りかけ働きかけるものを聞き取る者になる。木々の緑を内面にまで落としこんで、感情として受け取るものを探し当て、その感情を燃え立たせる。外的な活動より内面の活動に意識的に光を当て、何代も何十代も過去を遡って、引き出しの奥底にしまい込んだ想いのひとつひとつを取り出し、言葉にならない言葉を聞こうとする。意識下の暗闇に押さえ込められたそれらの想いこそ、解放されない霊達だ。魂の表面に取りだしながら御父母様へのとりなしをすることで、霊は解放されていく。幽界に通じて、見えなくてもいい霊を引き寄せることで憑依され振り回される、そんな低次元ではなくて、高次の霊界に参入できる霊的感性を備える者となり、御父様と共にいろんな高次世界を巡ってこそ、そこが成約聖徒の本領発揮の場だ。今ある周囲の環境にどっぷり浸かり振り回されるなら、御父様の創造の力を受け取らずに地獄へ引き摺る悪魔の手に委ねようとしている。御父様と共に未来の環境を、明日の環境を霊的高次の位置で創造している私である自覚を持って、朝に呼吸する者となる。この朝の光を呼吸し、私の中の木々の緑が息を吹き返す。蘇生されたこの緑こそ創造の力だ。御父様から相続する創造の力だ。

キリスト教を考える PART4

復活40日をもって霊的信仰基台を立てられ、霊的洗礼ヨハネの使命者としての復活イエス様を信じ仕えることで霊的実体基台を復帰され、霊的メシヤとなられたイエス様は聖霊を復帰されて霊的真の父母となられ、重生の摂理をされる。聖霊降臨(ペンテコステ)を、原理ではそのように霊的重生として説明されている。聖書では使徒行伝に聖霊降臨の様子が書かれているけれど、一同が集まった場でそれぞれが異言を語りだす等、現代人にすれば何とも如何わしい、カルト的な雰囲気が情景として浮かぶ。当時の知的事情からすれば、弟子が権能を与えられて奇跡を起こしたり、予言を吐いたりすることは畏れ多い事柄であったのだろう。しかし外的なことのみをイメージしてペンテコステの本質を見落すなら、私達はクリスチャンである第二イスラエル以上の存在にはなれない。私達が真の父母によって祝福を頂き重生するように、霊的イエスと聖霊によって霊的重生が為された。聖霊が下り満たされた魂を覚え、魂の中から光を放つ生へと生まれ変わった。それは星々の力が魂に下り光り輝く存在になったと言うことが出来る。降臨祭が地球生命体の再生、蘇りであり、復活祭が太陽存在の地球関与、贈り物であるなら、聖霊降臨祭は星々の地上的誕生、重生だ。夜空を仰げば宇宙の心魂の象徴としての星々を見ている。宇宙の心魂が重生を受ける者達に下り、宇宙の心魂として光を放つ。霊的重生を受けた弟子達やクリスチャン達の、迫害や殉教を超えるほどの光り輝く心魂様相に比べ、私が祝福を戴いて重生したことによる心魂はそれ以上に光り輝いているだろうか。霊的重生が受動的なものであるのに対して、祝福を戴くことでの重生は能動的に為されるものだろう。自分で意志を働かさないのであれば、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになることは出来ない。クリスチャンは反射鏡として光を放つのに対して、成約の群れひとりひとりはそれ自体が光を放つ存在となる。弟子達が奇跡の権威を与えられるのと、私達が御父様から祝福の権威を授けられるのと、どちらが重いか考えてみたことがあるだろうか。

2010年5月29日土曜日

キリスト教を考える PART3

み旨を完遂できずに、道半ばで十字架という無念の死を遂げたイエス様は、三日目に復活される。降誕祭は地球生命体の再生であり、それはイエス様の愛を受け入れた人間からすれば、再生された地球の魂に霊的に繋がれたことを意味する。堕落によって、死んでいた魂の形骸の中にキリストイエスの魂が入ることで蘇生され、切れていた人間ひとりひとりへの魂の糸がつながれる。復活されたイエス様は復活40日の霊的信仰基台を立てられることで、本来地上でのイエス様の摂理が成就されていたなら必要なかった復活祭をもって降誕祭を支えている。降誕祭が地球生命体の再生であるなら、復活祭は太陽存在に拠る愛への関与だ。イエス様がもたらした愛への、太陽存在からの強い働きかけだ。御父様がヘリコプター事故から生きて実体復活された時のみ言葉を思い出して欲しい。太陽が友達であることを知ったという不可解な言葉を述べられている。その意味は復活に於ける太陽存在の関与を口にされたのだ。地球に太陽の光が降り注ぐように、地球生命体に太陽存在の愛が降り注ぐ。霊的感性が眠っている現代人に取って、地球生命体と言う概念も太陽存在という概念も、空間的物質的にのみ地球や太陽や宇宙を捉えることに慣れてきた立場からは、その概念形成が難しいかも知れない。しかし霊的な事柄に関することこそ主体であり原因である立場に自分が立ち、その視点から見ることを養わない限り、本質は姿を現さない。この世界も進められている摂理も、御父様のみ言葉も私に開かれることは無い。

2010年5月28日金曜日

キリスト教を考える PART2

イエス様の誕生を祝うのが降誕祭(クリスマス)であることは誰でも知っている。しかし降誕祭の祭事に於いてクリスチャン達が霊的に受け取り魂に及ぼすものを知っているだろうか。キリスト教を貫いているものは新婦思想である。イエス様が降臨されたことで地上に始めてもたらされた愛を、大切に大切に胸のうちに抱えながら、私は再び来ると約束された言葉をひたすら信じながら待ってきた。イエス様の愛こそが自分を高みに届けるのであり、クリスチャン達の意志する魂にはイエス様を慕えばこその衝動が全ての行動の基としてある。そしてイエス様と共に喜び、共に泣き、感情魂をイエス様とひとつにする。楽園級に留まったままの魂基準をそれ以上に引き上げられることを棚上げされたまま、地上という空間に愛を保ち続けてきたのが彼らだ。ここで関係性の全く感じられない事柄に言及することになるが、地球は一個の生命体として宇宙から産まれ出でた。人間はこの地球を自分とは別存在と捉え、住む家ぐらいにしか認識は無いけれど、私自身が外的にも内的霊的にも地球生命体に組み込まれていると言う事実を先ず認識すべきだ。地球が思考し、地球が感情を覚え、そして地球が意志している。統括された地球魂の分枝として人間ひとりひとりが思考、感情、意志を為している。人類始祖が堕落した意味は地球生命体に取っても堕落したことであり、堕落ゆえに地球は魂を病んでいる。この地球生命体に空間を裂いて時間軸から堕落と関係の無い存在としてのキリストイエスが送り込まれた。新たな再生細胞が地球体内に発生した。イエス様の愛が世界に伝播された意味は堕落と関係の無い再生細胞が増えて地球を覆うようになったことを意味する。しかしそれが限られた霊的な再生に留まらざるを得ないことは、原理を知る我々が良く知っているところではあるけれど、キリスト降臨は地球に取っては歴史的変革だ。降誕祭に於いて霊的に受け取り魂に及ぼすものは、この地球生命体の再生で地球魂が呼び起こされた喜びだ。クリスチャン達がそんな理屈の上に立っている訳ではないが、どうであれ受け取る魂に及ぼすものは変わりは無い。この認識を押し付ける訳ではなく、それぞれに学び思考し祈って判断されることを望むけれど、キリスト教秘儀に頭を突っ込めばこんな秘儀的観点から説明もできる。クリスマスは地球生命の再生であり、地球の喜びを自分の魂に覚える祭事だ。

キリスト教を考える

御父母様は真の父母であられるけれど、イエス様が築かれたキリスト教基盤の上に立たれて、完成期の摂理を進めてこられた。呼び名は違えどそれぞれの宗教が一人の救世存在を求めては来たが、選ばれた中心的宗教はキリスト教であり、キリスト教が言うところの再臨のメシヤとして救世存在は集約される。旧約、新約、成約として受け継がれてきた中心的なものがあり、旧約の摂理を上書きする形で新約の摂理があり、更に新約の摂理を上書きする形で成約の摂理が為されている筈だ。であればキリスト教とキリスト精神に流れているものを知らずに、或いは無視して、成約の摂理を理解することは出来ない。キリスト教の背景を持たずに釣り上げられた者達に取って、摂理に対する理解を内外共に深める為には、キリスト教を学ぶ必要がある。キリスト精神として流れているものを知ろうとせずに、原理のみ言や摂理の意義を知ることができると思うのは正しくない。祝福の意義も昇華式の意義も、本当に知りたいと思うなら、イエス様の霊的勝利の上に築かれたキリスト教に息づくものを魂に響き霊的影響を受けるほどに学ぶ必要がある。キリスト教の祭事として、降誕祭、復活祭、そして聖霊降臨祭とあるが、巷に溢れた形骸化してしまったものをそれぞれの認識として捉えても、そこから霊的勝利は伝わっては来ない。とても一言で説明できる様な事では無いけれど、それぞれに魂を蘇生させる別様の力が備わっており、特に初期に於けるキリスト教徒はそれらの力を受け取って来た。そう言った霊的勝利の息吹を魂が感じ取ってこそ、イエス様の愛を魂に浸透させたクリスチャンを超えることが出来るのであって、そこを通過せずに原理のみ言を投げかけても、彼らにすれば魂を傷つけるカミソリとしてしか受け取れないだろうし、ましてやキリスト教は失敗した等と言える立場ではさらさら無い。復帰された牧師達に接する御父様を何度か眼にしてきたが、路傍で引っ掛けられた者達に対するのとは明らかに違う態度を取られる。勿論相手が誰であれ投入される愛に変わりは無いにしても、投げかけて返って来る反応に対して共鳴するものを感じておられるのを見る。

2010年5月27日木曜日

今日の想い 173

無知を超えることが出来ずに、夜が明ける。無知は死の領域であり、死の領域を超えないまま朝を迎えなければならない。知を得てこそ、差し込む光は光の意味を携えて私を包むのであり、無知のままでは光の抜け殻を受け取るだけだ。科学が説明するところの太陽を拝み、科学が説明するところの光を浴びても、その本質を受け取ることは出来ない。御父様の上にも、堕落した人類の上にも、等しく太陽は輝く。そして等しく光を浴びている。御父様に取っても、堕落した人類にとっても一日は一日であり、夜を越えて昼に生き、また次の夜を越えて昼に生きている。しかしながら、明らかに御父様が受け取られる同じものを私は受け取ってはいない。私には太陽も月も黙して語ることはないし、光に包まれながらも視覚を通して存在の有無を確認させられるだけで、それ以上のものを受け取ることは無い。食べて寝て行って来る一日は、食べて寝て行って来るだけの一日で終ってしまう。周囲を認識しながら生きる私の愚かな知のままに、光は光の衣服を脱いで私に正体を差し出すことは無い。しかし私は知っている。自分の無知が全ての認識を誤らせていることを。自分の無知が全ての対象との境界を作っていることを。自分を無知のままに留まらせる存在が私に四六時中働きかけている。それすら知らぬままに、五感だけに頼るしかない檻の中で、生きるでもない生を生きてきた。後天開闢時代が開かれて、全ての本質は差し出されていく。霊界と地上界がひとつになるとはそう言うことだろう。堕落人間の概念では理解を超える多くの内容を、御父様は語られ始めた。語って理解できない事柄を語るほど、御父様は暇ではない。私達が理解できるほどに無知を克服できるはずだと、そう踏まれて語っておられる。外はすっかり明けて強い日差しが向かいのビルの壁に反射している。同じアパートの、数棟のひとつの地下一階は、地表の上にあったとしても日中でも薄暗い。この薄暗さが自分の内的霊的暗さをそのまま表している。私は霊的無知を克服しなければならない。無知のままに生きることを望まない。霊的無知を克服し、御父様が訪ねられる多次元の世界に共に参入することを望んでいるはずだ。しかし、その為に私を無知に留まらせる霊的存在と取引し、差し出すものを拒んではならない。この四肢を失い、眼を失ったとしても霊的無知を克服したいと思えるほどに強く望んでいるだろうか。そこまでの想いが無いままに受け取ろうとするなら讒訴を免れないだろう。未だにその辺りで躊躇したまま、また新しい朝を迎えてしまう。

敢えて性について考えてみる

男性は女性を必要とし、女性は男性を必要とする。御父様のこの言葉をどのように捉えるか。堕落的な感覚に任せた認識であれば、肉欲的なものに限るか或いは肉欲的なものが中心となった認識になるに違いない。男性が女性を、女性が男性を必要とするのは感覚的欲求のままに、感覚的欲望を満たす為に必要だと言っておられるのではないはずだ。男女間のこの感覚的な引力が、本然の人間であっても当てはまるのか、堕落人間と同じ感覚的引力が働くのか見通すことはできるのだろうか。祝福を受けて、相対を決められて、この一人の相対を通して神様に出会うことができる。そう信じてお互いの関わりを深くしていく。実体の御父母様を戴くことで、御父母様の夫婦としての在り様に学びながら、相対とひとつになっていこうとする。しかしひとつになっていなくても相対を与えられた時点で身体を合わせてひとつにすることは出来る。そして身体を重ねるたびに人間としての陽陰の一体がそこに育まれるかと言うとそれはない。性に関してはそこに非情な深淵が存在している。闇雲に身体を求め欲求のままに身体を重ねても、抑え切れない衝動に踊らされて事に到った自分を認識するだけで、性に対する深淵を垣間見ることすら出来ない。絶対”性”と言う言葉の意味を、相対以外とは関係を持たないと言うことだけに限っていいものだろうか。それは勿論当然であるとしても絶対”性”という言葉にはそれ以上の意味があるはずだ。絶対”性”をして神様に会うことができる何かがあるはずだ。性に対する欲求を超えたところに立つ事で初めて、性に対する堕落的概念を超えた性に存在する深淵に足を踏み入れ、光を当てることが出来る。男性である私であれば相対を通して陰の深みに何処までも尋ねて行きながら、新たな創造の生命として陰陽がスパークする多次元世界への出会いが溢れているに違いない。御父様が、夫婦関係を持たないようにと指示されてこられた意味を思うとき、堕落的な感覚と堕落的な性への概念を超えない限り、性は堕落のステージに留まったままだろう。一方で産まれたままの姿で夫婦で休む様に言われ、その一方で関係を持たないように言われたその事が、堕落的に捉えれば矛盾しているように思えるけれど、本然の性、絶対”性”に目覚めて欲しいという願いがその言葉に込められている。何らかの条件的要件とも捉えられるけれど、性への本質を受け取る為の要件として見るべきだろう。

2010年5月25日火曜日

温暖化の本質

地球の温暖化が叫ばれて、二酸化炭素排出量削減に躍起になっているけれど、経済の発展に伴って自然を破壊してきたことは事実にしても、温暖化の主原因が人間社会が排出する二酸化炭素だけにあるとは思えない。地球の温暖化は宇宙の摂理として為るべくして為されるはずだ。地球生命体はその環境要件を段階を追って変えてきた。何の目的性もなく今の状態にあるのではなく、地球生命体としての創造理想を仰ぎながら、現在の状態まで漕ぎ着けてきたと捉えるべきだ。人類が人間理想を仰ぎながら人類歴史を重ねてきたように、地球生命体もそうであり宇宙も宇宙の創造理想を仰ぎながら何億光年の時を刻んでいる。宇宙の懐の中に地球があるように、母なる地球生命体の胎の中で人類は成長の為の変容を為してきた。私が戴いているこの身体様相の形状や器官全ては、創造主の命を受けた霊的宇宙存在の、歴史をかけた傑作品だ。そして更なる創造がこれからも身体様相に表れていく。現在の人間が現地球の環境要件の影響下のもとにあるように、地球生命体も大宇宙の影響下にある。今までも年を経る毎に地球の温度上昇は観測されてきたけれど、これからの数年間の温度上昇は加速度的に上昇曲線を上げていくだろう。北極の氷は間違いなく完全氷解するはずだ。凍り付いていた大宇宙の様々な高次元世界が融けている。その宇宙様相の変容が実体的に地球様相に現れる。人間の身体様相もそれに合わせて変容していく。人間の平常体温の上昇が起こることの意味は、自己中心的な冷たい魂様相を身体は拒むようになることだ。良心作用が強く大きく働く身体様相に変革させられる。体温がどんどん上昇するに耐える身体様相に変わっていき、身体の霊化が為されて透明感のある身体を持つようになる。そんなことが一瞬にして為されるとは思わないけれど、言及したことは遠からず起こるはずだ。御父母様の勝利圏が誰の眼にも明らかになり、真の愛の価値を誰もが認めざるを得ない。そんな時代が目と鼻の先にある。

2010年5月23日日曜日

鶴のヒマラヤ越え

朝目覚めて夜床に付くまで、過ぎ行く一秒一秒を主管的創造的人間として生きるとは、この一秒一秒に意志を刻印していくことだ。流されている映像が視覚に飛び込んでくるままの私状態を放置したり、何のやる気も起こらず倦怠状態に身を曝したり、それは体は起きているのかも知れないが霊的な仮死状態にある。嫌でも身に降りかかってくる困難や試練に対しては、それなりの意志を差し出して、目覚めている意識を生きているけれど、困難が遠のき、対処すべき事柄への意識が薄くなると途端に内的霊的に眠ってしまおうとする。御父様に本当の意味で出会おうとするなら、多くの乗り越えるべき障害が前を塞いでいることが、はっきりと見えなければならない。困難が立ち塞がっているのを自覚している時以上に、気を許し安堵している時の方が内的霊的には返って危険で奪われやすい。有り得ない事かも知れないが、内的霊的眠りに完全に落ち込んでしまえば人間の形をした動物になってしまうだろう。どれほど些細な煩わしさも避けようとし、どんな責任もリスクも負うのを拒めば、人間としての内的霊的成長は望めない。常に人間には、精神的高みを目指そうとする意志する魂を持つ反面、高みへのベクトルが弱くなると動物的な在り様に身を落して楽になりたい退化指向が働く。高みに向かおうとする意志が弱り、翼の膂力が落ちてくるといくらでも転げ落ちていくのだ。空気の極めて希薄な成層圏にまで高度を上げながら、ヒマラヤ越えを果敢に遂行する鶴の群れに見るあの意志こそ、私達は学ばなければならない。一度と無く何度も失敗し、羽を痛め仲間を失おうとも、それでも8000メートルのヒマラヤの壁に立ち向かう、あの意志を私の意志とするのだ。私達は精神の高みを目指しながらも、いつのまにか落ち着きどころを勝手に決めて安住してしまっている。国の救い、世界の救い、人類の救い、そこにかける想いは遠い昔に遠のきながらも、真の父母の名を唱えることで自分を誤魔化してはいないだろうか。過ぎ行く一瞬一瞬に意志を刻印していく存在になることだ。再度御父母様が居られる精神の高みを視線の先に見ながら、決意と覚悟を刻み込み、祈りを刻み込み、そして心情を刻み込んでいく。

2010年5月22日土曜日

今日の想い 172

洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信をひきおこすようになったのである。 講論第四章 メシヤの降臨とその再臨の目的より
堕落人間がどれほどうつろいやすい者であるか、自分と付き合っていれば良く分かる。洗礼ヨハネでさえそうなのだから、サタンが本気を出したら私などひとたまりもないだろう。天的な自分へ向かうベクトルが意志の在り様としてあるのか、或いは堕落的な自分に立ち戻ろうとする衝動を許して、仕様が無い感に埋もれているのか、自分という存在も良く分かっていないし、よって自分を主管できずにいる。洗礼ヨハネの無知は弟子をイエスに送って、来るべき方は貴方なのかそれとも他に誰かを待つべきか、と質問するに到った。天はイエスが誰であるかを彼に教え、そして既に彼の口を通して証言させてもいる。それにも拘わらず頓珍漢なのは無知ゆえだと言うのだ。洗礼ヨハネの人物像を把握できないから何とももどかしいところではあるけれど、イエス様をして彼を無知だと言わしめているし、この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者はひとりもいなかったとパウロは言っている。この場合の知恵があるとか無知だとかと言う意味は、メシヤに対する理解度の事を言うのだろう。洗礼ヨハネの捉える(信じる)来るべき方のイメージ像と目の前のイエス様とが重ならず、結局彼はイエス様とは別行動を取り、彼が捉えるところの来るべき方を待つ愚かさに堕ちてしまった。私達は御父様を再臨のメシヤであると信じてはいる。しかし信じるという言葉は主観的であり、私自身はそれを無知の克服だと疑わないにしても、御父様からそれぞれを見る時、ピンからキリまでの御父様に対する内的霊的或いは心情的理解度という知恵段階があるに違いない。私達のメシヤ観は極めて無知に近い知であるかも知れない。ましてや路傍で声をかけられて初めてメシヤと言う言葉を知ったような者が、直ぐにも知恵が備わっているとはとても言えないだろう。私なりに信じ、私なりの信仰観でいいとする者がいるなら、それこそ無知の極みに違いない。御父様が私を見て、本当に私の子だと認めて下さるように、御父様に対する無知を克服し、御父様の心情圏に飛び込んでいける私でありたい。その衝動熱が常に内面にあることを確認しながら、御父様の心情を探し尋ねる今日の一日が始まる。

2010年5月21日金曜日

富士を仰いで

日本人であれば誰でも富士への憧れが魂の何処かにある。富士に対する時、日本人として同じ感情を魂に起こすはずだ。大和の国に生まれた日本人としての誇りも魂も失いつつある今、誰もが富士を仰ぎ見ることを改めて思い起こさなければならない。霊峰富士に向かい受け取るもので、眼を自分に自分に向けることしかしなかった日本人が、全体意識を取り戻してひとつになる事が出来る。誇りと魂を取り戻せる。眼を覆いたくなるような出来事が毎日のように起こり、いつのまにかその異常が当然のように受け止められ見向きもしない。堕ちた国民が望むままに耳に甘い言葉ばかりを政治家は繰り返し、貰い受けることばかりに馴らされれば国民の魂は糖尿病化してしまう。国の為にという意識は壊疽してしまい、その内に自分で立ち上がることすら出来なくなる。誰がこの国を愛し、誰がこの国を憂いているのか。かつて救国の旗を掲げて立ち上がった我々は、今の日本の惨状を目の前にしながらどう想うべきだろう。摂理の前に身を挺して来たことはその通りで誰もが認めるにしても、では今の日本の惨状を他人事の様に眺められるだろうか。日本食口にとっては揶揄され迫害されてきたことで日本への嫌気感ばかりが増して来ただろうし、この国が堕ちていくことに対して仕方の無いことで自分の魂の生命は別のところにあるのかも知れない。救いの手を伸べるのは対するひとりひとりであって、救国の想いは薄いのかも知れない。歴史的事実としても摂理的観点からしても、日本は大罪を犯してきたしそう言われ続けてきた。だからと言って日本の食口が日本を愛さなくて誰が愛するのだろう。日本人として身が消えるほどに指弾されながらも、悔しい想いを収めて敢えて甘受しながら摂理に貢献して来たのは日本がそれで許され救われる為ではなかったのか。日本が沈没し太平洋の藻屑となることが分かった時、日本の食口は他の人々を捨て、いち早く朝鮮半島にでも逃げるのだろうか。最後の最後まで救国を叫び日本と共に滅びる覚悟をする者はいないのだろうか。富士を仰いで決意を迫られる時が来る。御父様の指示のままに大移動するにしろ、最後の最後まで救国を叫ぶにしろ、それぞれの良心に従い決意と覚悟を供える時が来る。

2010年5月18日火曜日

今日の嘆き

生活の為にもみ旨の為にも、生きている限り経済活動は付いて回る。店を経営して思うのは、技術の発展をもって生産の向上、利益の増加を図るためには、根底に店をマネージする者の自主性が担保されなければ出てこない話だ。店を出すにも会社を立ち上げるにも、当の本人に自主性の土壌が備わっていてこそ出来るもので、他の誰かに強請されて出来るものでも育つものでもない。我々のビジネスの多くがうまくいかないのは、そこに自主性が無いからだ。要するにそこにMUSTはあるけれど、WANT-TOが育たない以上ビジネスの成功は有り得ない。ひとつのビジネスを立ち上げるに当たって、摂理の要求だ、天の願いだと資本を投じるけれど、経営に携わる者が抱えきれないほどのMUSTを背負い、逃げ出したい思いの方が殉ずる思いより強くてうまくいくはずがない。そうやって失敗を重ねて来ながら、本来責任を取るべきゴーサインを出したものが責任を取っていないところに甘えがある。この世に於いて会社であれば責任者が首をかけるだろうし、個人出資であれば相当の財産を失い更に恐ろしい借金返済が待っている。しかし我々は失敗しても誰も責任を取ってはいない。誰かが何かの形で責任を取るのが原理原則であるにも拘らず、誰も責任を取ってはいないし取ろうともしない。出来ないことが常習化し、甘えが常習化してしまった個人も組織もこの世からすれば笑いものなのだ。み旨ごっこをしている側でサタンがほくそ笑んでいる。摂理の為に汗を流している私として認識しているかも知れないけれど、実は御父様の顔に泥を塗っている。本来御父様の御顔を仰ぎ見ることすら出来ないほどの体たらくなのだ。お金の重さも時間の重さも言葉の重さも、何も分かってはいない。分かっていない者は悔い改めることすら出来ない。

2010年5月17日月曜日

み言への姿勢

人間は地上に縛り付けられ、地上に執着し、地上の幻想を唯一の拠り所として生きている。御父様は地上に縛り付けられてもおられないし執着してもおられない。あらゆる次元世界を自由に行き来しながら歩んでおられる。人間は地上でこそ存在できると、地上以外の生は有り得ないという認識の上に立っている為、死を恐れ死を忌み嫌う。地上生活は霊界で生きるための準備期間であることを食口であれば知っているけれど、その認識は薄く頼りなく、圧倒的な地上的現実の前には影を薄める。食口であっても地上に縛り付けられ、地上に執着し、地上の幻想の方が現実的なのだ。しかしその次元に埋もれたままでは、どれ程論理的な頭で消化しようにも、御父様の言葉は理解できないだろう。何度も何度も数理の説明をされ、聞く者の意識を誘起するようYESかNOかを度々尋ねられるけれど、人間本来の意識は未だ目覚めてはいない。睡眠中の無意識状態が霊界への参入を認識していないように、目覚めた状態の意識も非情に限られたものでしかない。殆どの意識は未だ眠ったままなのだ。私達の意識は眠りから目覚めなければならない。御父様の言葉を読み解くことができる意識を目覚めさせなければならない。その教材はみ言以外ない。み言に対しては読むという認識を超えた接し方、受け取り方が要求される。ある意味内的霊的戦いが繰り広げられる。訓読する時間は戦いだという認識が先ず無ければならない。み言が生きて自分の魂に作用するまで、み言と私の間に幾重にも阻まんとする霊との戦いを勝ち抜かなければならない。み言の一つ一つが生きて私に働きかける神霊の姿を現して、初めてみ言の力を知るようになる。地上に縛り付けられた意識では、遠からず人間進化に働き始めた宇宙変革についていくことは出来ずに、置き去りにされることになるだろう。生活することに躍起になっているけれど、人間に取って恐ろしいのは生活基盤が無いことでも病でも死でもなく、人間進化から取り残されることが最も恐ろしいのだ。その意味で天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者達がそれを奪い取っている。

2010年5月16日日曜日

振り返れば愛

振り返れば、全ては神様の愛だった。並みの人間では超えられない、次から次へと押し寄せてくる労苦や責め苦を、内的にも実体的にも受け止めて来られた御父様の血と汗と涙の人生を振り返られながら、それが神様の愛であったと言われる御心情はあまりにも重い。あまりにも深くあまりにも気高く、そしてあまりにも悲しい。犠牲と言う存在が皮膚をまとっておられると言えるような御父様であられ、魂にも肉体にもぼろぎれになるまで鞭打ちの仕打ちを受けられた、その尋常ではない痛みや慟哭をして神様の愛であったとされ、それを言葉通りに取るなら受けた痛みを結果的に自分が欲したものとして歓迎しておられると言うことになる。そこには自分が死ぬことで必ず全体が生きる、全体を生かす為には自分は犠牲になることが本望だという揺ぎ無い意志が御父様の魂の在り様としてある。全体というと私との関係性は感じないのかも知れないが、全体であるけれども人間一人一人でもある。御父様が、自分が死ぬことで必ずあなたが生きる、あなたを生かす為には自分は犠牲になることが本望だと私に向かって言っておられると、そう言い換えてもいい。それこそが御父様の愛、真の愛なのだ。御父様のその痛々しい想いを誰でもないこの私に、子に対する父として抱いておられる。その実感が私達にはあるだろうか。御父様は私達を自分の子でなかったらいったいあなたは何なのだと言われるほどに、私達は御父様の子以外何者でもないと思っておられるはずだ。しかし私達が御父様に対するとき、御父様の想いと同じ想いを抱いているだろうか。大きな温度差がそこにはある。犠牲の道を愛だったと語られるのは、犠牲を代価として受け取ったものが今にしてみれば見えると言うことだ。犠牲は誰の為でもない愛する子供の為だ。私達であり人類である子の為に犠牲は捧げられ、私達が生き人類が生きることができるのを見て愛であった、愛の勝利だと喜ばれる。私達が過ぎ去った昔を懐かしく想うように、過去の苦労もひとしおだったと感慨にふけられたそんな言葉ではなく、それは思い出すのもおぞましく慟哭せざるを得ない程の触れたくない事柄であるに違いなく、しかしサタンに勝利されて結果として私達が生きるのを見て語られた言葉に違いない。

2010年5月14日金曜日

意識革命

何々しなければならない、と言う意志への強要は、本人に創造性を喚起することはないと思う。しなければならない、と言う言葉には、実はしたくはないのだけれどその意志に反してそうするように自分を追い詰める、という意味合いが根底にある。私だけなのかも知れないけれど、今までの歩みの中でどれ程MUSTを積み重ねてきたことか。意志への強要を迫りながら、どれ程無残にも果たせなかった墓石が荒涼とした過去の足跡に累々と横たわっていることか。蕩減の時代は終わったと話された意味を自分なりに熟考してみた。全体蕩減は終わったけれど個人の蕩減が残されているという意味は何なのか。蕩減に於いて全体と個人の関係性が無いのなら、全体勝利の為に歩んできた個人の歩みは無駄だったという事にはならないか。はっきりとした論理性を持って原理的に蕩減に関する事柄を説明することは先輩の諸先生方に任せるとして、私が気付かされた霊的気付きに拠ると、蕩減時代はMUSTの時代であり、蕩減が終わるとWANT-TOの時代が開かれる。何々しなければならない、と言う否定形の意志への強要が、何々したいと言う肯定形の意志活動になる事を意味している。蕩減が終わったと語られた恩恵に自分もあずかる為には、MUSTとWANT-TOの意志活動の大きな違い、意識次元の違いを内的霊的に理解把握して、WANT-TO意識を意志と言う魂活動の主軸に供えるべきだ。MUST意識がカイン意識なら、WANT-TO意識はアベル意識だ。WANT-TO意識に意識次元をステップアップすることで御父様が勝利された内的霊的内容を相続することができる。MUST意識が悪と言うことではなく、WANT-TO意識が意識の主体になると言うことだ。昔聞いた根暗の統一教会、根明の創価学会と言う風刺はなかなか的を得ていると思ったものだが、御利益信仰に見る魂の上っ面の表面的感情的な肯定気分で自我の中枢にあるものを誤魔化すのではなく、御父母様に拠って生まれ変わった自我から溢れる肯定感情、肯定意志をそこに見る者となる。献金にしろ活動にしろ、やらされ感が自分の中にある以上、やらないよりやったほうが、、、と思うかも知れないが、寧ろやらないほうがいいと思う。それで不安を覚えるかも知れないがそれは良心の声とは明らかに違う。周りに合わせなければと言う、ひとつの逃げでありMUST意識だ。目の前に献金や活動を提示されて、私がこれをやりたいと、私のWANT-TO意志を発動させるまで自分に深く尋ねることだ。それを祈祷と言ってもいいかも知れない。別に献金や活動に関わらず生活の全ての部分にこのWANT-TO意識を積み上げることで明らかに霊的背景は百八十度転換する。転換して新しい次元界にステップアップする。私は変わったと言い切れる。御父様の勝利圏を相続でき、み言は魂に染み入る。

2010年5月11日火曜日

久々の親孝行

若葉がしっかりと葉を広げ、日本的なこんもりした山々の殆どをその若葉の緑で覆っている。山の中腹を標高線に沿って右に左に曲がって走る道路を、ブレーキとアクセルを交互に踏みながら進んでいく。左側走行には直ぐにも慣れて、助手席に座っている父も安心して背もたれに頼っている。中国山地の頂きにある田舎自体はバスも通らないほど何もない所だけれど、少し車を走らせると日帰りの温泉施設は結構たくさんある。日本で歩んでいる時は田舎に帰ることも許されず、ましてや温泉など入ろうものなら負債すら覚えていただろう。それを思うと国外で歩むことで逆に日本という地の恩恵を受けていることに不思議さを覚えている。今回は妻のことを思っての帰省だけれど、年老いた親の為にも出来るだけ頻繁に顔を見せたい。市内で一人住まいをしながらの高校生活を終えるとそのまま献身してしまった。今となっては、決して若くは無い息子に対して愚痴のひとつも言いたいはずだが、過去に味わった親の心の痛みは胸の奥底に収めたままで、口にも表情にも出すことはない。み旨の為、結局は親の為だと言いながら、親の心労以上の苦労をなめてきた訳ではない。私に対しても御父様に対しても、恨みに思って当然の仕打ちを実際投げつけてきた。それを思えば親に対して頭が上がることは無い。み旨だと言って家を飛び出した兄弟達はその自覚を持つべきだろう。勿論家や親の事など見向きもせずに歩む必要があったことは否定しない。しかしだからと言って必要性を親に強いて、それを親は受け入れて当然だと思うのは少し違うと思う。温泉施設に着くと人数分のチケットを購入してそれぞれに渡し、足が悪くて引き摺っている父と、一回りも二回りも小さくなった母を前に見ながらゆっくりと浴室に向かう。傷つけた親の想いをそのままの後ろ姿に見ながら、いつまでもいつまでも元気でいて欲しいと願いを込めるしかなかった。年老いた親が嬉しそうにすればするほど、私は返って切なくなる。

2010年5月8日土曜日

今日の想い 171

創造性を喚起しない主管は主管という言葉すら当てはまらない。関係性が自己中心的なものに偏っていく。主管性転倒であるとか主管性復帰だとかを、主管の概念として上が下を服従させるというような支配被支配的な感覚を持ち込むと誤った認識になる。自分が主体の位置で或る対象に対する時、自分が関係することで対象の力が発揮され、対象自身に新たな価値創造が為されるならば、それこそが主管性と言えるものに違いない。そしてそこには愛が投入され愛が力とならなければ創造は産みだされない。主体と対象の間に愛は触媒作用として働き、対象は変容していく。主管とは愛の眼差しで対象自身が気付かなかった未来への希望を見せること。愛の言葉をかけて対象に創造への意志を持たせること。本然の主体対象関係を築いているかどうかはそこに創造が見られるかどうかだ。主体が権威をひけらかせば対象は卑屈になるだけだろう。その場に創造性が発揮されるとは思えない。真の父母の名のもとにあれば全ては許され全ては善しとされる風潮が未だにあるけれど、新しい時代圏に入れば内の中でこそ改革が要求される。万物を主管するにあたって新たな光を誘引し、万物は喜びの内に主管されることで新たな創造を誘引する。自分の周囲にある存在が活き活きとし、光を発しているかを問わなければならない。手にする食物が、目に飛び込む景色が、風の音や鳥のさえずりが、それらの対象への愛おしさのなかで活き活きとし光を発しているだろうか。私と言う霊肉の身体の責任者であり主管者である自我が、霊肉の身体に対してそういう意味での主管性を立てているだろうか。組織の責任者であり主管者に位置するものが、組織を統べるに当たって愛の主管性を立てているだろうか。お父様が全ての壁や障壁を取り払われた意味を噛みしめるなら、旧態依然の組織には大きな障壁が残っているように思う。上に立つ者が権威意識を持っていたり、下に位置する者が上に対して卑下する意識があるなら、そこには厳然と障壁が残ったままだと言うことになる。

2010年5月7日金曜日

日本の国に想う

普天間の問題で相当ぎくしゃくし鳩山政権も困惑の極みに落ち込んでいるけれど、鳩山首相がぶれにぶれるのは一本筋が貫かれていないからで、それは彼だけに当てはまる事ではなく国民全体に言えることでもある。軍国主義から自由主義に、一瞬にして国の在り様も国民も変わったように思っているかも知れないけれど、実際は何一つ変わってはいない。日本人に貞操観念は無い。いつもいつの時代も周囲になびいている風の儘に自分を合わせてしまい、最初から自我を認識してはいない。日本人は風見鶏だ。周りが人を殺せば自分も殺し、周りが輪姦すれば自分も加わり、周りが平和平和と叫べば平和の意味も解らずオウム返しをする。軍中心部の言葉に踊り、左翼の言葉に踊り、今はマスコミの言葉に踊っている。踊らされているのではなく踊っているのだ。日本人は誰かが笛を吹き太鼓を叩くのを待っている。それがどんな音色だろうと、どんなリズムだろうと構わない。繋がる自分の根源を求めようとせず、自我存在を曖昧にしたままで毎日を流そうとしている。ゴールデンウイークは誰もが同じ様に行動し、終わればまた誰もが能面をつけて出勤する。不況の谷間に落とされたり、病や介護の疲れに沈んだ者は踊り続ける事が出来ずに相手にも自分にも死を選ぼうとする。日本人の異常さを当の本人は全く気付いてはいない。日本には信仰の自由はない。宗教という言葉を受けていかがわしさを誰もが覚えている。いかがわしさを覚えている時点でその人には信仰の自由は無い。いかがわしさを覚えながらも敢えて触れようとせず無視すれば、そこに自由の空気は流れない。人は人、自分は自分と言うのが自由だと勘違いしている。日本人は異常だ。日本を愛し国を救おうと思えばこそ敢えて忠告したい。少なからず日本食口も日本の異常な空気を吸っている。私も日本での歩みを振り返って異常な空気に踊らされていた時期を認識している。目覚めるには国外に飛び出すしかないと思っている。飛び出さないなら飛び出さざるを得ない状況に追い込まれても飛び出すべきだ。日本食口がどれ程の苦労を為してきたか。御父様がそれを理解されていることが唯一の救いだ。いかがわしい部類に括られて歩んできた食口の道のりは涙に溢れている。しかしそれと同時に日本的な異常さが加味されてきたことも事実だと思う。監禁問題は日本の異常だ。日本の異常をここまでの長い間、結果として許してきた教会の体質も異常だ。

妻の実家での出来事

妻の実家についた次の朝、象徴的とも言えるハプニングが起こった。義弟の嫁さんが働きに出る義弟を駅まで送る為に玄関を出たのち、暫くして義父を大声で呼びながら家の中に飛び込んできた。その時私は妻と遅い朝食を戴きながら義母と話していたが、嫁さんが義父を玄関先に追いやったあと驚きを隠せない様子で早口に説明した。どうやら蛇がでたらしい。タイヤのゴムチューブでも束ねて置いてあるのかと思ってよく見ると、黒い蛇が何かを取り込みぐるぐる巻きにして絞めてる最中だった。どうして玄関先に束ねたゴムチューブを投げているのかと手を出そうとした時正体がわかって飛び上がってしまったようだ。誰が出くわしてもこの状況は驚くだろう。暫くして帰ってきた義父が玄関先から何処か遠くに追いやり、その為に時間を要したのだろうと思っていたが、義父の口から始末したという言葉が出てきて皆を再度驚かせた。羽交い絞めしていた20センチもあるトカゲは逃げて行ったが、蛇は頭を砕いて始末したらしい。義母がそこまでしなくてもと口を挟んだが、義父は蛇は後追いするから始末すべきだときっぱり言い切った。私が象徴的と思えたのは理由がある。食口であっても99%の人はこの事実を馬鹿げた話として取り合わないだろうから前もって釘を挿しておくことにするけれど、気の遠くなるような人類歴史の或る段階に於いて、人類は爬虫類の様相を表した時期がある。尻の骨に尻尾の退化した後が伺えるように、爬虫類は人間進化に耐えられず取り残された先祖の末裔的表れだ。勿論爬虫類は霊的なものを個別には持たないので先祖そのものだとは言えないけれど、少なくとも身体的にそういう時期があったことを思い起こさせる存在だ。黒い蛇がトカゲを取り込んでいるとくれば、食口であればピンと来るだろう。昔、松本ママの話の中で、蛇はサタンだから現れたら必ず殺すようにと語られた事を覚えている。多くの兄弟はそこまで真に受けることは無かったと思うけれど、当時私はそれをも信じた。そして実際目の前に現れた時左の足で頭を踏みつけた。踏みつけた瞬間に蛇は私の足首から膝まで巻きつき、咄嗟に足を強く振って巻きついた蛇を地に落とすと、痛みでくねる蛇をそのままにして逃げ去った。今でもその時の足に巻きついた感覚を覚えている。罪のない万物に対してそこまでしてしまった事をずっと悔いていたけれど、松本ママのその話が全くもって信仰とは関係のない見当違いの話とも言えないかも知れないと思っている。堕落性として現れる妬みや嫉妬、猜疑心や執着心、肉欲への渇き、それらを心に宿したのを霊視するなら大小の蛇が絡み合っているのが視える。意外と目の前に現れた蛇は堕落的内面の象徴的実体として出くわしたのかも知れない。であれば見事に始末すべきだろう。義父が始末したと言った時、皆は肩をすぼめて気持ち悪がっていたけれど、私は腑に落ちるものを感じた。

2010年5月6日木曜日

今日の想い 170

機内のビデオでアバターをやっていて時間潰しに見ることにしたが、意外とよくできていてそれなりに感動した。スクリーンで見れば3Dで相当な迫力で映像を追うのだろうけれど、それに比べれば機内のモニターでの映像は知れている。しかしそれでも飽きさせないストーリー展開があって映画人キャメロンディアスの創造性に触れることができた。アバターの話を出したのはアバターという身体を主管し、思い通りに使いこなすのと同じ様に、与えられた人間の肉体もどう主管し、どう使いこなすかに依る所が大きいことを言いたかった。身体を悪くするのも外的な影響と内的な在り様とが合わさり、結果として病として現れるけれど、蕩減として負うものだと諦めてしまうのも決していいとは思えない。浮腫んだ足を念を送って癒すことができる位には主管性を取り戻してもいい。人間本来の主管性が復帰されるなら、与えられた身体への主管性も復帰されて当然だろう。人間の器官それぞれは或る星の霊的存在に拠って活動を為している。私の身体でありながら私の意志の及ばないところで心臓のリズム的動きが為されているし、他の全ての器官に於いてもそれが言える。或る器官が悪いのであれば私の内的在り様が器官を司る星の霊的存在の働きを狭めている。祈りながら内的霊的に深く沈んでいくことで、自分の内外に係わる様々な霊的存在に会うことができる。それらの声を聞きながら自分の内的在り様がどう病に繋がるかを判断することができる。病の原因を外に外に見ようとしても自分への言い訳にしかならない。病の原因は内にある。小宇宙の星々の外的表れが器官それぞれであり、太陽系銀河系的な表れが循環系であったり消化吸収系であったりする。血統的に受け継いだものを含めて内的なものを変革させ、内的なものが変われば霊的背景は変わってくる。自分という小宇宙の星々の正しい運行が健康体を創っていく。

今日の想い 169

地方都市の駅からほど近い所にある妻の実家だが、裏にはせせり立つ山が迫り、玄関から見渡す風景とは大きな違いを見せる。義母の話だと猿もよく出てきて作物を荒らしたりするようだが、朝方は山の鶯が見事な艶のある鳴き声を一帯に響かせ、朝の凛とした空気を直接内面に届けてくれる。アメリカにも鶯は啼くが、その張りと艶は明らかに劣る。日本で採れる作物がアメリカに比べて甘く美味しい様に、全ての万物にも日本なりの洗練されたものが吹きこまれている。日本の麗しい山紫水明は日本を形作り治める霊的存在によるのであり、その霊的息吹を心地よい風を受けながら感じることができる。その中にどっぷりつかりながら日本民族は民族形成を為してきた。日本を離れて生活することで、日本の恵まれた背景を理解すると同時に、恵まれたが故に堕落的なものをも曖昧さの中で許してきた事実も見える。風土がそこで生活する者の気質全てを決めている訳ではないが、風土と気質の関係性は大きい。久しぶりに日本の環境に身を預けて、自分の中に流れている日本的堕落的な血の霊的本質をひとつひとつ紐解きながら、それに寄り掛かって同和したい誘惑を分別し、真の父母から流れるものを主体にしながらそれらの霊的本質を産みかえていってこそ、日本を治めてきた霊的存在を超えることができる。真の父母に繋がる者達が神道に流れるものを超えない限り、日本は御父様の願いに応える母の国にはなれない。有名な白山道のブログに息づくものを超える何かを日本食口は持たなければならない。自分にそれが無いと認めるなら、御父様が何者かを本当の意味で理解してはいないかも知れないし、少なくともみ言の力を備えてはいない。日本の水を得て見せる内的安堵を妻に見ながら、そんなことを思わされた。

2010年5月5日水曜日

今日の想い 168

アメリカも夏のような暑さが数日続いていたけれど、ゴールデンウイークの日本も暑い。来週には雨も降り気温も下がるようだがこの休みの期間は雨も降らず気温も高いようだ。私にすれば暑すぎるが、寒さを連発する妻に取ってはこの暑さがちょうどいいらしい。妻に取っては祝福された一時帰国に違いない。検査の数値から判断すればいつまで今の生活状態を続けられるかわからないので、お願いして暫く休みを取り、一度妻を日本に連れて帰ってきている。狭い機内では身動きも取れず、足を下ろしたままでじっとして居るしかなく、膝から下は浮腫で象の足になっていた。彼女の実家で休み、足を揉んでやると幾らか落ち着いたようだ。今回思い切って連れて帰ってきてよかった。悪化がもっと進めば難しいだろう。義父は90を超えていて流石に膝が痛いだとか血圧だとか口にするようになったが、まだまだ元気だ。義母も元気だし集まってくれた妻の姉妹もすこぶる元気だ。大きな孫がいる60前後のようにはとても思えない。今までの一月半、監査が終わるまで妻も生きた心地はしなかったろう。そのストレスが更に症状を悪くさせた。み旨の為に気を使い、ストレスを覚えることを災難と捉えずに、自分がそういう形でお役に立てたことを喜ぶ認識を持ってこそ、気を使った意味がありストレスを受けた意味があるというものだ。所詮体を使うか気を使うかしか無いのだから、苦労してなんぼの世界に生きている。苦労の数を数え上げ、人生の棚から卸して苦労話を話し、そして聞かされる場が天国生活ならば、苦労した者勝ちの世界ということだ。元気な者の口から説いても説得力には欠けるが、事或る毎に小出しにしながら妻が受け入れられるよう話しかけている。健康で人生を送ることが幸いな人生であり、病に悩まされれば不幸であるという認識は食口の間にもあるだろう。しかし健康な体で何をするかが問われるのであり、健康な体で自己中心的に生きるなら、健康で人生を送れたことが逆に霊的には裁かれることになる。病にある身は内的にも外的にもそれを克服しようとする過程で、既に健康な人以上に強い霊的生命を勝ち取っていることは紛れもない事実だ。

2010年5月2日日曜日

経済動向

リーマンショックから一年半。アメリカの経済は幾分落ち着いたかのように見える。確かに店の売上げ推移を見れば昨年度比一割増しで、三月四月と右肩上がりだ。クレジットカードの金利が上がり、高利子を嫌気して現金売上げの方が一時多くもなったが、ここのところまたカード払いで済ませる客の方が多くなっている。失業率も下がり始めて誰の目にも底は越えたと見えている。アメリカの経済全体の気分としては季節の春そのままに春模様だが、実は二番底どころがとてつもない恐怖のシナリオが近い将来予定されている。地球の大変革を待つまでも無く、国家経済の破綻で今日の社会は立ち行かなくなる。今ギリシャ問題でユーロ圏は揺れに揺れているが、ギリシャだけに留まらずイタリア、ポルトガル、スペインと南欧の国々は既にソブリンリスク(国債危機)を回避できない状況になろうとしている。ギリシャの財政赤字(国債発行)はGDP比10%を大きく超えている。追随の南欧諸国も同じような数字だ。世界的バブルが弾けて世界金融危機になり、放って置けばそのまま実体経済危機になる。そうなれば国として立ち行かなくなるので国債発行して中央銀行が買い取る形でマネーを市場に流さざるを得ない。金融というお化けは終末の申し子と言えるだろう。マネーへの執着で人生の大半の部分を埋めてきた多くの霊達は、地上に再臨協助を許されればマネーへの執着心を満足させる行動を起こさせる。ヘッジファンドや投資銀行は正に彼らに取っては再臨協助にもってこいの場なのだ。国家予算を超え国家さえも支配できるマネー量を取り込み喰いながら、国家破綻に持ち込むことで彼らの再臨協助は功を為す。悪を蔓延させることで逆の意味で摂理進展の促進に貢献していると言える。これからが彼らの仕事の最後の仕上げに入っていく。ユーロ統一通貨を維持できるかどうかどころではない、ドルを維持できるかどうかに突入してくる。対GDP比を言うならアメリカは財政赤字(国債発行)は既に40%を超えている。辛うじて機軸通貨を維持できているのは、中国、日本、中東石油が未だドル建てでありアメリカの国債を引受けているからだ。しかし中国はいつ背を向けてもおかしくない状況にある。そうなればドルはひと月も持たないだろう。その前に必ずオバマは起死回生のカードを出す。新ドル通貨を立ち上げて危機回避に動く。

2010年5月1日土曜日

今日の想い 167

正直に言うとどの様な結果も有りえた。刑を受けたかもしれないし強制送還に及んだかもしれない。この国で刑に服された御父様を思えば、咎められるべき多くの負債を抱えた私自身こそ、何を言い渡されても受けて当然の報いだろう。しかしながら影響は妻に及び子に及ぶ。移植を受けてアメリカの良心に支えられて生きている妻が、ひとりで生きていくことは難しいだろう。まだ金のかかる子供二人を妻一人で世話するのかと思えば尚更だ。内的霊的戦いに於いてはしきりにこの情に訴えかけて、覚悟の緩みに付け込んでくる。夫や親としての情の執着を天に委ねることができるかをそのつど問い続けられ、それを越えた位置で今度はどう責任を取るかを問われる。あらゆる起こり得る苦々しい未来を次々と突きつけられながら、戦いは内なる世界で繰り広げられてきた。それこそが紛れもない現実だ。突きつけられる一つ一つの霊的提示に対して、その都度決意と覚悟を武器に境界線を押しやりながら、最後の決戦に持ち込んだ。日頃何の意識も持たず、否定的な思いや感情が浮いては消えるのをそのままにしているけれど、実は分別と言われる内的対処をこまめにしていくことで大きな戦いに必要な霊的歩兵要員を集めている。霊的に闘うということがどういうことなのかを今更にして思い知らされて、目が覚めたような感覚だった。明らかに絶対善霊が背後に控えている。億万の善霊の兵士を引き連れている。しかし隊列を整え戦意を鼓舞し、負け知らずの群れとするのは誰でもないこの自分だと認識しなければ、絶対善霊を引き寄せておく器量もなくなり、霊的に消え入りそうな私を素通りし霧散していく。

勝利の日

やっと終った。このひと月半、生きた心地はしなかった。沈鬱な様々な未来が錯綜し、しっかりと信仰を立てようにも足は取られるし引っ張られる。その状況の中にあれば、少しでも弱音を吐き霊的に投げ出した時点で即座に地獄に引き摺り込まれる。内的霊的に一進一退の状況が続きそして今日の天王山を迎えた。前日、特別な条件を立てた訳でも無かったが、毎日の条件の積み重ねを信仰の基台にして、その上で改めて覚悟と決意を供えてこの国の良心に訴え、この地の絶対善霊が働ける自分になるよう努めた。今日の監査が何の咎めもなく終り、監査員が笑顔で部屋を去ると、しばしその場で神様と、そして背後で護って下さった霊達に感謝の礼を捧げた。険しい峠をついに越えた。感慨無量だった。大きな摂理の流れからすると取るに足らない事だったと言えるかも知れない。しかしながら食口のひとりひとりが、祝福家庭のひとつひとつが、そして摂理を預かる組織のそれぞれが、神側とサタン側の鬩ぎ合いの最前線で踏ん張っている。この小さな勝利が必ず全体に波及していく。内的霊的戦いを勝利することでしか、目に見える勝利に繋げる事はできない。表れた表面的なものだけをどれ程いじくりまわし見栄えのいい形に仕上げようとしても、魂が宿っていなければ直ぐにも崩れ去る。伝道にしろ経済にしろ、見える結果を残そうと本当に思うなら、見えないものを確立することだ。今回の試練を越えたことで、新たな器が用意された。この器で新たな知恵と新たな運勢とより大きな結果を取り込むことができる。私に取っても店に取っても、やっと新しい2010年の春を迎えることができた。これからは一気呵成に攻め込んでいける。2010年4月30日、陰暦3月17日、ひとつの内的霊的勝利の旗を掲げたこの日を永遠に忘れることはない。