2010年7月31日土曜日

混沌の時期を掻い潜る

食口らしい振る舞いや言葉、食口らしい性相という皆に共通した食口像が私の中にもあり、そうあるべき事を自分や他の食口にも無意識のうちに要求している。祝福家庭らしい在り方という絵に描いたような理想家庭があり、それを全ての祝福家庭に当てはめようとしている。個人にしろ家庭にしろ表面的にはそのように装うことも出来るけれど、深層に分け入れば分け入るほど、あからさまな正体と装った姿との乖離が見えてくる。普段表面に出ることは無い自分の醜い実態を見ようとせず棚に上げておいて、自分なりの食口個人や祝福家庭に対する判断を当てはめながら、善に対する感情や悪に対する感情を発生させて臭わせている。或る意味醜い本質を誤魔化し目を逸らせながらも、表面的に装ったもので御父様に対する信仰を備えた食口であり祝福家庭としての形を崩さずに来れたけれど、これからは隠してきた実態を白日に曝されるのであり、曝し出された実態から目を逸らさず逃げず、正しく消化する事も必要となってくる。決して望まれることでは無いけれど、我々の幼い信仰や理解に耐えない真の家庭の事情も切り売りされながら手に届く。そのひとつひとつの事を判断の対象にすれば躓くことの方が多いのかも知れない。しかしそこに悪霊の業は巧妙に私に働きかけ、御父母様から分離させようとする。今回、御父様がはっきりと口にされた言葉を、私達はしっかりと胸に留めておかなければならない。他の誰でもない御父様にだけ従って行くということが大切なのだ。その御言葉は私の稚拙な判断もその意味に於いて修正され、方向を正して行く必要があると言う事でもある。今の内外の混乱以上の事が、これから益々起こってくると言うのが御父様の次の言葉だ。絶対信仰、絶対愛、絶対服従が只の御題目ではなく、その基準とひとつになることでしかこの三年足らずを乗り越えることは出来ない。神様を見る前に悪魔が炙り出されるのであり、悪魔が仕掛ける迷路や罠を掻い潜りながら、2013年1月13日のその日を正しく迎えるられるように神霊の目をしっかりと備え続けることが必要だ。身に起こる忌まわしい事柄も、私の深層に沈んでいたものが掻き回されて地上界に浮き上がり表出したものであり、逃げ回ったとしてもどうせ清算すべき事柄としてより肥大しながら被さってくるなら、目の前に現れたとき敢えて覚悟を決めて逃げずに取り組むことだ。御父様に繋がっていれば必ず清算されて、忌まわしい事柄は新たな希望の引導主と姿を変える。ちょうど復讐神エリニュエスが善良で好意溢れるエウメニデスに変身したように。

2010年7月30日金曜日

今日の想い 198

私の言葉の中に否定的な印象が含まれているらしくて身構えているらしい。分派の臭いを嗅ぎ出したように近付こうとはしない。分派を分派として枠組みし、反逆者に仕立て上げたのは他ならぬ我々の体質に多くの原因はあると思っている。サタンが入ったと言い切ってサタン視すれば、彼らの救いの道は閉ざされてしまう。と同時に我々の側の括りも、相手をサタン視したその射すような視線で自分をも見ている。そこに愛の道理が働いているとは到底思えない。サタン視してしまえばアベルカインとして一体化する道は閉ざされる。自分の中に心と体の闘いがあることをどう認識しているのだろうか。心がアベルであり体がカインだ。カインである体が、神様の恩恵を受けようとすればアベルである心を通さなければならない。心と体を一体化させるのに体をサタン視し、無視し否定して一体化させることはできない。心は体を説得しない限り一体化の道は歩めない。個人の道に於いてそうであるように、家庭であれ社会であれ、国家であれ世界であれ、正しく前進しようと意志すれば、必ずアベル的なものとカイン的なものとに振り分けられていく。しっかりと分別され、アベルとカインに振り分けられれば、カインはアベルを愛し仲保とし屈服し、アベルはカインを、ヤコブが勝利したようにエサウが愛し仲保とし屈服せざるを得ないように歩み寄れば一体化される。一体化されることでしか人間は未来に向けて前進できないし、高みに向かうことはできない。一体化される為に、先ず善悪混ざり合った存在からアベル的なものとカイン的なものに振り分けられなければならない。カインをサタン視して無視することは神様が涙してこられた復帰歴史に対する反逆者で、歴史を後戻りさせようとしている。分派と呼んで完全否定してみたり、異を唱える兄弟を危険視したりする、それ自体がみ旨を受け入れたとは言えないし、そのような立場で神様の心情、御父母様の心情を理解することは永遠にないだろう。

2010年7月27日火曜日

NY MC 宣布大会

幕裾から御母様の手を引かれながら、しっかりとした足取りでスピーチ台のある中央まで歩かれると、御父様も御母様も満面の笑みを湛えて歓迎の拍手に応えられた。壇上に立たれ、照明を浴びられた御父様は一際大きく見えた。お若い頃と何ら変わらない力強さを御身体全体から発散しておられた。御声はMCの二階席奥に席を取っている私の所までしっかり響き渡り、壇上では御歳を召された様子を微塵も感じさせないお姿だった。それは食口に取っても人類に取っても、そして勿論神様に取っても、どれほど喜びであり希望であろうか。配られた案内の4ページ一杯に、大会スピーチの全内容が記されていたが、それに沿って全霊力、体力を注ぎ込まれながら霊界地上界に宣布された。宣布された内容を見るなら、内的霊的勝利内容を表記するにはそれぞれの覚醒度、開発度によって受け取り方に差異があるからその御言葉そのものとしか言いようがないが、宣布大会メッセージの外的表記に関しては、訓読教育の重要性、重生復活の昇華権の恩賜、太平聖代の時代の到来(蕩減復帰時代の終焉)、D-DAY(起源節)と関係する神様直接主管圏時代と言うことになる。そしてその延長線上にイメージ表記できることは、神様の祖国、韓国への今以上の集中化だ。神様が定着される国として神様御自身が意識されるように、全ての我々の意識もそこに集中化させられていく。神様は韓国に益々働かれるだろうし、み言が国の中心的柱として立てられるだろう。韓国語の早期習得を強く願われるように食口の韓国大移動も見えてくる。御父様がブループリントを既に作られているように、神様がそこに入ってこられ天宙的宇宙的環境がそのブループリントに合わせて整備されていく。御父様の描かれたブループリントが御意そのものであり、それこそが我々に願われる絶対的み旨として我々の内外の全てをそこに合わせて行くべきなのだ。今いる仮の住まいに落ち着き老後の心配をしているようでは、一瞬で崩れ去る堕落圏の国と共に滅びる運命に身を委ねる者として、神様からも御父母様からも、理想や希望の未来からも決別されてしまうだろう。その意味ではD-DAYは恐ろしい日となるに違いない。神様が御父母様と一体となられ御身体に臨在されたと言うことは、地上で為されることの中に神様が直接働かれると言うことだ。内的霊的な事柄が直接、外的地上的な事柄に反映されると言うことだ。

2010年7月26日月曜日

今日の想い 197

太い枝ごと千切れて吹き飛ばされて道路の端に散乱している。路面にはもみくちゃにされた枝葉が所構わずへばり付いている。NYでの大会を終えた明くる日、DCまでの帰路の途中で天の底が抜けたかのような大雨に見舞われたけれど、高速を降りてその惨状に驚いた。降りて最初の信号が働いていないものだから不思議に思いながらも、それが立て続けに作動していないのを見て初めて、そこら一帯が停電していることがわかった。速度をしっかりと落としながら周りに目をやった時入ってきたのが、最初に記した風景だ。相当の嵐に見舞われたらしい。DCのメトロエリアに近付いたときは千切れ雲は確認できたものの水色の穏やかな空が広がり、この風景は半時前の荒れようからは想像できなかったようだ。まだ明るいうちにアパートに帰り、建物の中に入って見ると、案の定電気は止まったままだ。薄暗い廊下を突き当りまで来て、手元に用意していた鍵で入ると室内には外の明かりがまだ入り込んでいる。暮れる前に着いて良かったと思った。それでも闇は次第に浸入し、空との境がやっと確認できる頃には部屋の中は完全に闇に埋もれてしまった。電化機器も全て止まり、生活音も何一つしない。静寂の中で唯一の光源として灯したロウソクの灯火だけが揺らいでいる。現代文明は電気文明でもある。電気が滞りなく届くことで全ては回転している。電気が止まれば人間すら動きを止め、暗闇の中で不安を抱えながら怯えているしかない。経済システムが破壊するほどに通貨が暴落すれば、到底電気など供給できない。水もガスも止まるだろうし、油も回っては来ないので車だって走らない。この嵐の停電騒動で現代文明の脆弱さをひしひしと感じた。天が意思すれば生活の全てを止めて、人類が本質を問うようにすることは造作もないことなのだ。先週はDC郊外のこの街を震源地として地震が起こった。この東海岸で地震が起こったなどかつて聞いたことがない。自然災害が随所で起こっても地震がこの辺りで発生するなど思ったこともなかった。朝の五時丁度、イーストガーデンで御父様が訓読を始められた丁度その時だ。何が起こっても何の不思議もないと言うことがわかった。天地開闢時代は開かれたけれども、地上的な天地開闢の前には三日間の暗闇が訪れる。地軸が移動するのか、自転が逆周りになるのか、太陽が天岩戸に隠れるのか何なのかはわからないが、天宙的新時代の地上的幕開けの前に三日間の暗闇が訪れる。三日間、人間の身体にも深い暗闇が浸入し、暗黒を生きることで新しい時代の身体を用意する。

2010年7月24日土曜日

今日の想い 196

進化論という唯物主義を多数の人間は信じている。特に特定の信仰を持たない多くの日本人は、進化論は当然の事として観念に焼きついている。進化論を否定した人間を彼らは普通の人間としては見ない。明らかにカルト的な宗教に染められた異質の存在として不思議な目で見る。少し考えれば進化論が全くもって正しいと万人が納得する説明が為されている訳ではないので、進化論もひとつの信仰に過ぎないのに、彼らは神によって人類が創造されたことをはなから否定している。進化論は神無き信仰だ。進化論信仰は自分の感覚に頼った判断を間違いないものとして規定している。この眼とこの耳で受け取る情報をそのままの情報として判断しているのだと言うけれど、判断までの過程に様々なフィルターをかけられ、かけていることを自覚していない。進化論を厳格に自分の観念の基礎に置くなら、全ての宗教的道徳的なものに何の価値も見出せない。人間の尊厳などと言う言葉に何の意味も無い。精神的なもの、内的霊的なものは幻想に過ぎない。しかしそこまで考え抜くことはしないで、自分なりの人生を謳歌するために都合のいいように神はいない、進化論は正しいと納得させているだけで、要するに誤魔化しながら生きているに過ぎない。都合のいいように誤魔化しながら生きる、即ち本質から逃げている。進化論を認めながら逃げている存在がいれば、神を信じながら逃げている存在もいる。本質から逃げるのであれば、進化論を認めようが神を信じようが同じ穴の狢(むじな)に違いない。正直に言うと私は逃げている。逃げまくっている。逃げて逃げて行き場を失って、そこで初めて観念して本質に向き合い信仰者らしくせざるを得ないのであって、追い詰められなければそこらの人間と同じように堕落様相に埋もれている。今の時代は益々追い詰められていく。全人類が追い詰められていく。追い詰められて真の父母を求めざるを得なくなる。私の根源にある永遠であり不変の自我存在に取って、追い詰められることが必要なのだ。根源的自分を認識した者に取って、困難に対面した時、感情は悲鳴を上げながらも、根源的な私が喜んでいるのを自覚している。その自覚を持つことで感謝と言う本当の意味を経験している。苦労と感謝は裏表であって同じ事柄の異なる面を言い表す。苦労や困難の耐えないのが人生であると解った者に取って、進化論や唯物主義はそれを消化する理念や力にはなり得ない。宗教的なものに目覚め、最終的に真の父母に出会うことで根源的自我存在を自覚しない限り、苦労は経験しても苦労を感謝に昇華することは出来ない。昇華できなければ苦労は怨念として内的霊的に蓄積されるだけなのだ。

2010年7月22日木曜日

入道雲

胸をそり、空を見上げれば、入道雲が目に入る。見渡すと東の空に連なって、どこまでも天を目指し膨らみを押し広げている。立体感を備えた三つの巨大な入道雲が青い空を占領している。暫くみていると、刻々とその姿形を変容させながら、三つの巨大なとぐろを巻いた白い龍が、それぞれの威容を競い合っているようにも見える。頂上付近の発生したばかりの雲の膨らみは、密度の濃い白光りを放ち、鋭い大きな龍の目さながらだ。その眼光でお互いを牽制しているようにも見えるし、地に対して睨みを効かせているようにも見える。天に龍が棲み、地には堕ちた蛇が棲む。地に堕ちた蛇はこの世の神として崇められながら、我が物顔で地上を支配してきたサタンだ。偽りの愛で偽りの血統を数限りなく枝分かれさせながら、サタンの僕、悪魔の子孫が地に満ちる。今の今まで天に棲む龍が地に下ることは無かった。龍として思いつくのは、御父様の幼名に龍の文字が入っていることだ。御父様の地上への出生は、天に棲む龍が地に下ることを意味している。地に下って、この世の神、暴れ回る地に堕ちた蛇を退治される。万王の王として宣布され君臨されることは、この世の神が御父様の前にひれ伏したと言うことだ。最後の時を目前にありとあらゆる発悪がなされ、地上の存在誰しもがその影響を受けずに居られることはない。あらゆる誘惑に曝され、あらゆる感情を噴出させながら、自分がどちらに組するかを明確に迫られる。天の龍を仰ぎ見ながら、私は龍の子、御父様の子であると、入道雲に向かって断言する。龍はその証しを見せろと私に迫る。白光りを放つ巨大な眼球で私の本質を射抜きながら、嘘偽りを隠すならそのこめかみまで裂け切った口の餌食にしようと構えている。最後の時に私を裁くのはサタンではなく、神の使いが直接私に対面して私を裁くのだ。いつの間にか三つの巨大な入道雲は、青い空をたなびく穏やかな雲となってそれぞれの区別すら付かなくなってしまった。

2010年7月21日水曜日

今日の想い 195

その言動や行動を非難する兄弟の方が多いのかも知れないけれど、私はそこに心情の深さを見た。御父様の言葉を機械的に受け取り、その言葉を繰り返すだけの食口に、血が流れ涙がほとばしる感情魂を見る事は出来ない。立場上表面的には烈火の如く怒られはしても、御父様はそこに温かいものが流れているのをご覧になったはずだ。親であれば、子供の為に涙を流し立ち上がってくれる者に対して、どうして審判の言葉を振り下ろす事が出来るだろうか。厳しい言葉を口にされながらも、その背後にある親としての嬉しい想いがそこに含まれているのを私は見逃さない。祝福を与えて、目の前の食口が自分の子以外何者でもないと言う、親子の情愛、父子の因縁が、何事であっても切り離されない関係としてそこにある。御父様の位置に上り詰める為に、私達が為すべき事柄は見上げるばかりに山積されながらも、親子の関係故にそれら全てが凌駕される、その心情因縁こそが私達の宝なのだ。御父様が私を子として想われ、私が御父様として慕う、そこに何者も何事も介入されることはない。千万の峠を一瞬で超え、百死に値する罪さえ払拭される、そんな親であり子であると断言されるその言葉以上の福音があるだろうか。実績を数え上げながら、み旨を条件的機械的に歩むことに何の疑問も感じない我々のままではなくて、ただ御父様に喜んでもらいたいと言うその一心で歩むことが出来ればどれほど幸せだろう。天国に行くか地獄に行くかが関心事ではなくて、そこが天国であれ地獄であれ御父様と共にありたいと歩む事が出来ればそれ以上の果報者はない。私を尋ねる為にアメリカに来られたのだと、ずうずうしくも思える自分に私はなりたい。

2010年7月19日月曜日

氏族メシヤ

御父様が執り行われてこられた多くの宣布式や大会を、その意味するところを受け取ることが出来ないまま、内的霊的に私にどう関わっていくのか解らなければ、私と関係のない通り過ぎていった行事に過ぎない。先生方に解説していただいても、これまでの宣布式や大会の意味すら解ってはいないのに、過去の勝利が積み上げられることで今回の宣布が為される意味が解ろうはずが無い。解ろうが解るまいが、それとは別に自分がみ旨だと思うところの、献金の為の経済復帰であったり伝道や氏族復帰であったりという目の前の為すべき事柄がひしめいている。そのみ旨と思うところの行動を御父様は願われていると言うのが私の中の中心的な位置を占めている。しかしながらこれまでどれだけ走っても、未だに親兄弟が見上げるほどの家庭の経済基盤も、親兄弟親戚の中にある様々な内的問題を解決するような人格も備わってはいない。未だに氏族に対して何らの主導権(長子権)も握ることが出来ずに今に至っているという兄弟が殆どだろう。自分が氏族復帰も為せずに今の位置に留まったままで、言われるままに大会や式や行事に参加し、参加することでよしとする、或る意味形式的聖徒さえ装えばOKと言う私に堕ちてはいないだろうか。この世に対してあくまで主導権を握らない限り、地上天国は見えては来ない。所詮誰しもが御父様が勝利された路程を歩まざるを得ない。主の名を唱えていれば天国に連れて行かれる訳ではない。自分の頭の中に御父様という言葉が響いていれば安心だというような、夢を見ている意識状態から目覚めなければならない。我々に今一番必要とされていることは、切実さだろう。今、足をつけて落ち着いているその土台が崩れ去り、外的な生活が脅かされることでしか目覚めないなら霊界はその方策を取るかも知れない。生活が奪われ、たとえ生命が奪われかねないとしても、霊的生命が奪われるよりはいい。教会内の内的安住の位置からこの世というカイン圏に自分を投げ込み、それでこそ生きるものがある。それでこそ祝福を通して私の中に植えつけられた、御父母様の血統に繋がる御父様の分霊の存在を自分に見る。それでこそ御父様が勝利されて打ち立てられた宣布式を、自分に相続しようと本気でその意味を受け取ろうとするだろうし、受け取ることで主導権を握る段階を踏んでいける。氏族メシヤとして、堕落したアダムとエバの位置に立ったままなのか、それとも霊的にのみ勝利したイエス様の位置まで持ってこれるのか、それとも実体の氏族メシヤとして勝利するのか、その切実さを思えば自分の事や生活のことなどに思い煩う暇はない。

2010年7月18日日曜日

2010年盛夏

閃光灯のように打ち付ける、盛夏の太陽光に身を曝せば、焼ける皮膚を覆うように汗が噴出す。汗はいくら拭っても、後から後から噴出してくる。今流し込んだボトルの水が一瞬で染み出し流れ出したようだ。暑いと言える限界はとっくに超え、熱は身体に痛みさえ起こさせる。これが2010年の夏だ。D-DAYまで1000日を切ってしまった2010年の夏だ。燃え盛る太陽の意志をこの暑さと痛みとして実感しながら、2010年の夏を生きている。私の中に渦巻く感情は、血の流れの中に生きている霊達の存在表現だ。血統を遡りながら生きてきた者達の今を生きている証しを渦巻く感情の中に見ている。今ほど昨日と今日の感情が反転し、朝と夕の感情が全く違う、ジェットコースターのような感情を生きていることはなかった。血統を遡る全ての歴史に生きた霊達が地に降り、私の中で私と共に生きている。同じ思考を生き、同じ感情を生き、そして共に意志する。私の中の生きた御父様がしっかりと方向性を指し示されながら、泣いたり喚いたりしながらも私と私と共にある霊達は距離を縮めたり置いたりしながら御父様に付いていく。2010年の夏の太陽に身を曝し、私が汗をかくことで霊達も私と共に活動しながら汗を流している。み旨の為に、御父様の為に汗を流すことを目的としながら私の中に存在している。最後の時を御父様にしがみつき、ひたすら離れる事のない様に意識する私があるように、私の中に備わった御父様である霊的太陽にひたすらしがみつこうと、霊達が意識的に私と共にある。私が御父様から離れれば、彼達の救いの道は閉ざされる。その切実な想いが感情として私の魂に浮上する。2010年の夏の太陽の強さは天の意志の強さであり、私に届く夏の暑さは霊達の想いの暑さだ。真の父母を渇望して止まない想いの暑さだ。天も地も更に暑さを強めながら、地上の悪は熱に焼かれることを案じている。焼かれまいと最後の発悪が狂ったように為されている。D-DAYこそが焼かれる火を見る発火点なのかも知れない。

2010年7月14日水曜日

私の想い

先輩が説明されるように、確かに御父様は疑われることはされないのだろう。誰の報告であっても信じられ、その報告をもとに新たな指示をだされるのだろう。では報告の中に偽りが盛られていた場合、どうなるのか。虚偽を真実とされた上で出された指示も指示には違いない。御父様の指示である以上従わざるを得ない。しかしそこに真の家庭の痛みが伴うならどうだろうか。真の家庭を引き裂きかねない苦渋の選択であっても、御父様は立場上その指示を出さざるを得なかったとしたらどうだろうか。何度も何度も筆を止められながら、断罪する言葉を色紙の上に連ねることを自らに強いられる、あの映像を誰がまともに見続けることができるだろうか。心情主義を御父様から学び、父母の心情の重みを少しでも知るものなら直視に耐えられるものではない。御父様の痛みの少しでも想い測ろうとするなら、指示が出ている以上その指示に従うまでだと簡単に言ってのけることなど出来ようはずがない。たとえ結論として指示に従うとしても、その決断は自分の魂を引き裂かれるほどの決断であるべきだろう。我々の心情がそこまで追い遣られて当然なのに、言葉を機械的に受け取るのみで言葉の中に父母としての何の感情も子として受け取れないのなら、言葉だけの指示に従う意味は全く無い。今こそ良心が試されるときは他に無いに違いない。指示に従わざるを得ないと言う兄弟の言葉に対して私の良心は反応しないし、彼の良心をその言葉の中に見ることは出来ない。反逆者に従うと言う汚名を着せられることには何のわだかまりも無いが、それよりは私の良心に対して嘘をつくことは私には出来ない。この大先輩の言葉に触れることが無かったら、何の感情の伴うこともなく指示に従うべきだと言い放っていただろう。この言葉に触れたのには切実な神様の意志を感じる。切実な神様の意志を感じて初めて、この件に関する私の良心が脈打ち始めた。神様の意志としての良心が作動し始めた。

2010年7月13日火曜日

昼の霊 夜の霊

太陽が沈んで暫く経って、西の空がかろうじて濃い青を保っている。枝を高々と広げた木々の輪郭が、濃い青を背景に影絵でも見るように幻想的に迫ってくる。あと半時もすれば輪郭は闇に溶け込んでいくはずだ。地上の人工的光がなくなれば、全ての地上存在は夜ともなると闇に溶け込んでいく。夜になって視覚を限定的にされることで内面を見る力を喚起される。昼の間、外界に意識を遊ばせながら、受け取り取り込んだ多くの体験がどのように内面に作用していくかを観察している。昼であろうと夜中であろうと、そこに存在しているものは変わらず存在していると誰もが思っている。昼の私と、夜の私は同じ私だと思っている。昼には存在物の輪郭を明確にしながら、それぞれの存在の個の在り様を明確にし、夜には輪郭を外されて全てが同じ闇として存在している。昼には昼の霊が私に働き、夜には夜の霊が私に働いている。昼の霊はより外界に意識をもたらし個を自覚し、夜の霊はより内界に意識をもたらし全体を感じる。御父様が話されるように、昼の神様が存在するし夜の神様も存在している。頭で思考する悟性人間は御父様の言葉で混乱する。神様は一なるお方であるのに昼の神様、夜の神様とはどういう意味なのか。問うことは正しいけれど悟性での理解、即ち自分の概念による理解を期待しても答えは返ってこない。既に風景の輪郭は完全に闇の中に沈んでいった。時間が経過したから夜になったのではなく、夜の霊が意志を働かせた為に夜を迎えている。昼の霊の新たな創造の為に夜の霊が働き始めたのだ。夜と昼が交互に来るのを当たり前と感じ、時間が確実に前に流れていく事を当たり前と感じ、空間が規則正しく広がっている事を当たり前と感じれば、そこに意志を見ることはできない。意志を持った霊的存在が働いている事を見届けることはできない。昼の霊と夜の霊が交代する時、朝に光が地上に満ち始める時と、夕方風景の輪郭が闇に溶け込む時、風景を眺めながら感情として引き起こされるものの中に昼の神様と夜の神様が語りかけている。

2010年7月11日日曜日

今日の想い 194

私達は今回のことを通して飛躍的成長を願われている。私に罪があるから御父母様が必要で、言われた事を一生懸命やればいい。その程度の認識や、それに類似したみ言葉らしき言葉を使い回ししながら、結局は狭い教会的意識に留まったままだ。それで本当に摂理完遂は為せるのだろうか。私が完遂するという覚悟と決意を供えた者が本当にいるだろうか。御父様が2013年1月13日を摂理完遂の日と決められたからそうなるのだろう、ぐらいの認識に留まった者が殆どだろう。誰かが為し、私はそれに乗っかるのであれば、それは天国を何処かの楽園の島に入るかのような外的認識で捉えているだけで、心情的勝利圏に同参することはできない。神様から見ても、御父様から見ても、私達は空を仰いで主の再臨を待つクリスチャンと同じように、空中に浮かんだ天国で御父様を中心に和同会でもしているような情景を思い描き、要するに白昼夢から醒めてはいない。ONE FAMILY UNDER GODの本当の概念を私達は所有してはいない。その道筋に於いて誰かを蹴落とし廃するなら、どうして仰ぐ主題とひとつになることができるだろうか。人類がその主題と一つになる為に積み重ねられたピラミッドのひとつひとつの石は、どれを取っても精誠が込められたものでなければならない。ひとつやふたつぐらい政治的に悪の知恵が入り込んでいても構わない、表面的平和の構築が為されればそれで善しとされると誰が言えるだろうか。御父様がそれを善しとされるだろうか。私の良心に鑑みて私はこの道を行くのであり、私自身もこの良心が羅針盤であるとそう言えるだけの内的霊的成長を私達は願われている。今回の一連の事柄は私達にそれを要求している。今回の事は全体に取っても、兄弟ひとりひとりに取ってもONE FAMILY UNDER GODの試金石となろう。決して踏み絵で裁くと言うような、存在意義を根底から崩すような無知に陥るべきではない。

今日の想い 193

艱難は地上的なものとして、外に現れるものだとばかり思っていた。しかし艱難が訪れてみると、それは内部に起こり、我々一人一人に内的な影響を及ぼそうとしている。今現在、決して修復しつつあるような状況とは言えないので、余波は確実に末端に迫りつつある。誇張した言い方をして事を荒立てることはしたくないが、余波は食口ひとりひとりに津波となって押し寄せる。外的津波なら高い山に逃げることだが、内的津波をどう乗り越えたらいいのだろうか。今までは御父様の指示のもと、責任者の方向性は一致しており、純粋な普通の兄弟であれば方向性に対して何の疑いも詮索することもなく、即ち私が改めてその方向性を吟味し熟考し祈祷してみる必要なしに天のみ旨として受け入れていた。しかしながら今の状況は明らかにサタンが間にあって介入している。一人一人を指して、彼にサタンが入り彼女にもサタンが入った等と言う単純なことではない。当事者を含めて誰ひとり御父母様に反旗を翻そう等と企んでいる者は一人もいない。相反する者同士であっても、どちらも御父母様を愛しみ旨完遂を標榜している。そこに異を唱える者は誰もいないだろう。であれば人ひとりを指して非難することは間違っていると言えないだろうか。同じ山頂を目指しているが、そのルートと方法が違い、或る者が取る方法が他の者のルートを結果として妨げている、或る者はその方法が最善だという思い込みがある為、他の者の妨げは致し方のないことだと自分を納得させている。D-DAYが迫っている為、時間的にも感情的にも余裕はなくなっている。云わば最後の摂理に対してこれ以上の失敗は許されないという切羽詰ったものが相反する両者には共通していると思う。その為にそれ相応の犠牲は伴うものと認識しているはずだ。私はその犠牲が曲者だと思う。その犠牲を自分に負わせるのか、或いは他の誰かに負わせるのか。犠牲を自分に課した者を神様は取られるだろうし、犠牲を他に被せた者はサタンが介入して来ざるを得ないと私は思う。だから私はそこを見逃してはならないし、自分に犠牲を課した者に付いて行きながら私自身もそうあるべきなのだ。

2010年7月10日土曜日

食事を考える

いつもはどんなに店で忙しくしてても、食事は必ず自宅で取る。店で従業員用の食事が出されるが、どんなに美味しそうでも自宅で食べることにしている。自宅で妻の手を通した食事を口にすることが非常に大切だと思っている。妻の造る食事が特別美味しいとか(勿論美味しいに決まってはいる)、私の健康の為に配慮してくれているとか、そういうことではなくて、妻の手を通したものを口にして私の肉とすることが、夫婦が一つになる事の重要な儀式だと思っている。彼女が認識しているかどうかは別として、聖酒式で御父様から妻となる人に渡り、妻となる人から夫となる人に聖酒が渡るように、妻の手を通した食事を戴く事で御父様から受け取るものがあり、私が御父様から受け取ったもので夫婦が御父様の願う形でひとつになれる。別に先輩や誰か兄弟がそんな事を言った訳ではなく、私だけがそう思っているだけなのだが、実は御父様に聞けばそう答えられるのではないかと、ひそかに思ってはいる。今日は明日のミーティングの為にNEWYORKに上がらないといけないので、運転の途中サービスエリアに寄ってファーストフードを腹に収めることになった。昼食がフライドチキンとマッシュポテトで飲み物がボトルのお水、夕食はハンバーガーとフライドポテト、そして飲み物がコーラ。典型的アメリカンファーストフードだ。どう揚げたらこんなに衣が固くなるのかと思うような、着膨れしたチキンの足のフライを両手で支え、前のめりになって頬張る。固いチキンと格闘すると手も口の周りも油でギトギトだ。情緒が全く感じられない極端に言うとエサ化した食事は、たまに取るならいいけれどこれが毎日のように続くとなると精神的影響も大きいだろう。子供も学校の為、寮生活で家から出ているので毎日外食かTVディナーだそうだ。ファーストフードもどきをひたすら自分の肉とすることで、外的肉的実利だけを追い求める精神様相になっていったのだろうか。食事を取ることで外的に自分の肉とするように、どんな食事をどのように取るかによって内的にも精神的形を創り上げている。食事は明らかに内的霊的な祭事だ。食べて消化する事を通して、食する対象を昇華させている。

2010年7月9日金曜日

BACKHORN

BACKHORNと言う若者のロックバンドがある。メディアへの露出は少ないので中年層以上で知っている者となると非情に少ないだろう。実を言うと私も自分から探し当てた訳ではなく、息子が聞いていたIPODをカーステレオに繋いで流したのが最初だった。初めて耳にしながら何か自分の深いところに訴えかけるものがあった。最近の曲も歌手も多過ぎるのか、どの歌を誰が歌っているのやらさっぱりわからないし、どの歌もながらで聞き流すにはいいけれど、聞いて心の内側に迫ってくるものなのかと言うと首を傾げる。しかし彼らの曲には確かに迫ってくるものがあり、響くものがあった。聞き始めはボーカルの歌い方なのか曲なのか或いは技術なのか、何が私を惹き付けるのか良くはわからなかったが、詞の訴えるものを中心に捉えると、確かにそれら全てが詞と言う言葉を演出する為に統一的に表現されていて、ひとつひとつの歌に魂が備わり、一人の人生の舞台の一幕を見るように、生きて私の内側に感情として届く。この齢でロックと言うのも可笑しな話だけれど、車で移動する時に良くかけていた。若者の生きることへの問いかけが中心的表現となっているが、勿論み言を知っている訳ではないので堕落的な表現もままある。しかしそれを差し引いても言葉が生きた魂の力として迫ってくるのは驚くばかりだ。ハイテンポな曲もスローなバラードも、ずっしりと重いものを届けてくれる。表面的な共鳴ではなく、魂の奥にあるひだを震えさせ共鳴させる。彼らの歌を聞いて決して心情が高まる訳ではないが、堕落人間の自分として認識しなければならないものを私に突き付けてくれる。「番茶に梅干し」と言う不思議な題名の曲の歌詞にこう言う部分がある。「純粋なことに心惹かれてもキレイなだけじゃ役立たずさ 罪のないのは青ばかりだろう 空の青 海の青 青い春」 これが誰かの書いた本から抜き出したものでなければ、非常に鋭い内的感性を持っていると私には思える。皆にも是非耳にされることをお勧めしたい。

新しい朝が明ける。新しい風景が始まる。新しい出会いがある。同じ君でも今日の君は昨日とは違う。私も違う。新しい何かが私の中に芽生えている。今日と言う時間と広がる空間の中にも、新しいものが芽生え、新しい風が吹き込む。今日が昨日の延長だと断定するなら、そこに希望はない。昨日の設定が今日の中に新たに組み込まれる。設定は同じように見えても設定されている霊的背景が違う。昨日の霊的背景と今日の霊的背景は異なる。昨日を含む昨日までの学びを、私という宇宙と大宇宙に、夜の内に差し出している。そして昨日までの御父様の勝利圏が、朝には大宇宙に反映され、私という宇宙にも反映されている。私は全体であり、全体は私だ。その感覚を持てば、新しい次元は既に広がり続けていることがわかる。昨晩はひとしきり涙を流した。涙を流しながら内的霊的には血を流した。表面で涙を流し、奥の深いところで血を流すことで、堕落の血で組成された自分の大きな部分と決別した。自分を自分とする執着と決別した。決別することで自己否定の本質的意味を受け取った。安侍日の啓拝を供えて、夜が明けて光が満ちていく流れの中にこの身を置きながら、私の中も光で満たされていく。この新しい光が今日と言う新しい自分を生きていく。過去に生きた概念を、全く新しい今日の光に当てはめようとするから混乱が生じる。今日は今日の新しい光に耳を傾け、差し出すものを素直に受け取る(委ねる)という内的霊的自然体を供えることが出来れば、共鳴体となって天の声を受け止めていける。天の運勢圏に何の抵抗もなく入っていける。今日の光の中に神様は訪ねてくださる。私の中の光はその期待感に溢れている。

今日の想い 192

確かに、先輩家庭が話してくれたように価値観の違いがあるのだろう。私は明らかに二世に対する間違った概念を所有していた。祝福の子女は原罪を持たないということがどういうことなのか、解ってはいなかった。今も解ってはいない。恐らくこれからも理解することはないような気がする。しかし神様は解っておられるはずだし、勿論御父様も解っておられるはずだ。それなのに原罪が無いとはこういうもので、祝福子女とはこういうものだという私なりのイメージでしかなかったと言うことなのか。それならそれでどうして前もって知恵を戴けなかったのだろうか。知恵は与えられていたのに私が受け付けなかったのだろうか。知恵を受け取るには余りにも幼い信仰だったからだろうか。私は立ち上がれないほどのショックを今受けている。心の相当部分が欠け落ちている。子供にどう対処していいのやら全くわからない。恐らく子供も親にどう対処していいのかわからないのだろう。この苦悩は私の子だという執着から発しているのだろうか。先輩が言うように、確かに産まれて直ぐ奉献式を済ましている。奉献式を済ませた以上、子供は神様の所有だ。子に対する親の執着心から出た苦悩であれば、奉献した意味がわかってはいなかったと言うことだろう。それとも私の苦悩は神様の子女として育て上げなければならないと言う神様との約束から来るものだろうか。私は先ず自分自身を整理しなければならない。今は感情だけが先走ってどんな言葉も子供の内には入らない。確かに私はこの機会に激しく成長しなければならないことは解る。それには大きな痛みが伴うはずだ。心の中の最後のしがみ付いているものを、力ずくで奪い去られなければならない。普通の親が子に対する想い以上の想いを食口であれば持っているだろう。親が子離れする以上の犠牲を、私に要求されている。これが私のイサク献祭に違いない。

2010年7月8日木曜日

今日の想い 191

華氏百度を超える日が続く。ほんの少しの間を空けて再び運転席に入っても、車内は既に熱地獄だ。ハンドルは熱くて握れないし黒皮の背もたれも焼けている。窓を全開にし、兎に角ギアを入れて発進しない限り、車内の熱気は入れ替わらない。エアコンを最強にしても暫くは熱風が吐き出され、不快感を味わわなければならない。不安と怒りと心配が入り乱れ、横になっていても苦しいばかりで眠りにつけるはずも無かった。ベッドの上で頭を抱えながらも玄関のドアに全神経を集中させ、かすかな物音さえも逃さず子供の帰りを待った。それでも気付かれずに入って来たのは彼なりの負債があったからだろう。考えて見ると、例え正論であれ一方的に話し、いいか悪いかの返事だけを求めたのには無理がある。彼なりに言いたいことはあったはずだ。いや、おそらく自分の中で整理がつかず話を聞く段階でも応える段階でも無かったのだろう。それを半ば闇雲に、彼にしてみれば一方的制裁が始まった。感情を押さえたつもりでも全てを押さえ込めるものでもない。そうは言っても幾らか落ち着いた今だから言えることで、聖人でも無ければ時間を於いて行動に出ることは難しい。暫くは続くわだかまりを我慢することを自分に課し、関係の中に、これ以上たたみ掛けるように言葉を押し込む余裕は無い。エアコンがやっと効いてきて車内が涼しくなってきた。通風口を調節しながら首筋や汗の噴き出した胸元に冷風を宛がえた。素直な時の彼の言葉が熱が引いた脳裏に思い出され、胸の内でこだましている。時間を遡るほどに息子の素直さはあどけなさに変っていく。痛々しげな今の息子の表情は、子供の時の泣き顔に変っていく。涙腺は緩んで涙が止め処もなく流れてくる。親の至らなさを悔いて居た堪れなくなる。前方が霞んで見えるのは夏の暑さの陽炎のせいなのか、それともこの涙のせいなのか。

2010年7月7日水曜日

今日の想い 190

親なんて簡単にひねり潰せる。産まれたくもないのに何で産んだと詰め寄ればいちころだろう。あまりにも少ない言葉数のひとつひとつを、その言葉に秘めた内心をことごとく慮り、本音の裏に隠された魂に居座っているものを探り当てる。しかし、もし探り当て言い当てたとしても、それで本人が変わるわけでもないし悔い改めるわけでもない。親としては胸をかき切られるような鋭い言葉を投げつけられ、子供にしてみればそれは傷つける言葉を吐き捨てることでしか表現できない愛の減少感の裏返しなのかも知れない。愛し愛される基礎を丁寧に築き上げることを疎かにしたまま、絵に描いたような家庭理想を期待し、それを子にも押し付けていたのだろう。子に対して可愛くて可愛くて仕方がない事と、子を愛する事とは意味合いが違う。愛の絆でしっかりと繋がれていたはずだという幻想が目の前で崩れて行き、痛々しい現実が暴かれる。実は今までだってそうなのだろうけれど、敢えて見ないようにしていただけかもしれない。現実をしっかり見ろと言うことなのかもしれない。これからの道のりを思い測っていくと気が遠くなるように頭の重いことではあるけれど、この歳であっても地上に足を着けている以上振り出しから再出発しろと言うことだ。教会内でいろんな出来事が起こっている事と、小さなこの家庭で起こっている事とが、内的霊的にはリンクしているのかも知れない。私の内面に起こることも、子供の内面に起こることも、そして異なる内面をどう一致させ一つにすることが出来るかについても、大きな霊的流れがあり、その支流の支流として何らかの影響を受けているはずだ。全ては根底に於いて一つに繋がれている。今となっては自分を落ち着かせ、必ずや御父様の勝利圏から流れるものがあるはずで、一つ一つの事柄に精誠を込めながら信じて待つしかない。

今日の想い 189

魂が燃えている。メラメラと燃えている。悲痛な声を上げて燃えている。届かない想いが行き場を無くし、大きな火の玉でも飲み込んだように悲しみの怒りの炎が魂を舐め尽くす。信頼はかくも簡単に裏切られ、あれほどに目を輝かせて約束したのに、それが一夜にして翻される。やっと私の前に現れて、せめて御免の一言だけでも期待したのに、心を完全に閉ざしたまま視線を合わそうともしない。親として呑まされる最強の毒杯を宛がわれたように、もはや感情はひきつって何の思考も紡がない。言葉もなく、情けなくうな垂れて、親としての怒りを吐き出すでもなく、背を向けてその場を去ることしか出来なかった。手が小刻みに震える。大きな声で泣きたいけれど泣くこともできない。親と言う存在は何と弱々しい存在なのだろうか。愛の対象が自分を貶めることを親に差し出して、それをだしに親を地獄の底に引きずり込もうとする。親としては愛を差し出したつもりが、子供は親の勝手と捉える。親としてはこの戒めが、子を想えばこその愛なのに、子は足かせと捉える。この堕落の世界に多くの誘惑が、怪しい色合いを差し出し怪しい臭気を醸し、妖艶な手つきで彼らを誘い込む。無垢な裸を喰ってしまおうとそこかしこに罠が仕掛けられているのに、彼らは何もまとわず裸で飛び込む。その恐ろしい危険をどうして察知できないのだろう。只の美味しいお菓子を手に取るように足を向けてしまう。この無力感に押し潰され、一睡も出来ないまま、仕事に向かう。職場でどのように時を過ごしたのかさえわからない。訳のわからない幽界をひがなさまよい、気付いてみるとパソコンの前に座り込み、取り留めのない言葉をキイに打ち込んでいる。重苦しい靄が目を覆っていて、今の私には一寸先も見えない。

2010年7月4日日曜日

今日の想い 188

新しい朝は必ず訪れるのに、太陽は必ず登り朝の光で地上を満たすのに、御父様を慕う心情をいつ何処に置き忘れて来たのだろう。何もかもが恐ろしくて、いつもびくびく周りを伺いながら、小刻みに震え続けていた遠い昔を忘れ去るほど、私は傲慢になっていたのだろうか。あの時と何ら変わってはいないはずだ。相変わらずの恐れで小心者で泣き虫で、ガラス細工のような魂を大事そうに抱えながら生きている。私を強くしているのは信仰であり愛であり、神様からくるもので強化されている。信仰をはずし愛をはずし、それで神様から受け取るものを失うなら、サタンでさえも掃いて捨ててしまう只の塵に過ぎない。強くされた私を、誰の力でもない私自身の力だと錯覚すれば傲慢になる。傲慢になって上からの眼線で他を論評する。神様からなのか自分の傲慢からくるのか、言葉を選び態度を選び感情をも選んで対するべきなのだ。今ある位置を捨てて下っても、御父様を慕う心情と力を取り戻さなければならない。私の周囲に付属している全てを失い、この腕やこの足さえも失ったとしても、御父母様を慕う想いだけあれば充分で有難いと、啓拝の一つを精誠の限りを尽くして捧げることができれば後の事はサタンにくれてやっても構わない。確かに私は一番大切なものを失おうとしている。慕う心を置き忘れている。宇宙は朝日が昇る儀式を忘れず供え、夕日が落ちる儀式も忘れることはない。そこには厳然たる秩序を保つことを使命として侍り、創造主に対する慕う心情を備えた宇宙の存在が働いている。宇宙の秩序は神様に絶対的に慕い侍る霊的存在で維持されている。今の私にこの朝日を浴びる価値はない。慕う心を置き忘れた私は、唯一悔い改めることで慕う気持ちを取り戻せる。

今日の想い 187

今日を生きたと言うことは今日を闘ったと言うことだ。闘ったと言う自覚がないなら今日を生きたということにはならない。信じる闘いであり、愛する闘いであり、そして侍る闘いだ。そして自分を知らなければ闘うことはできない。なぜなら闘う相手は私の中にいるからだ。自分はどこまで信じることが出来るのか、そしてどこまで愛することができ侍ることができるのか。自分のそれらの限界域を明確に把握しながら、その境域こそ神とサタンが対峙する場であって、気持ちの逃げ場でうずくまっている限りは自分に働く神様も認識できなければサタンの存在も認識できない。認識できないけれど確実にサタンの懐の中にいるのだ。御父母様を知りみ言を知ろうとも、心を許せば直ぐにも堕落的なものに浸透させられる。なぜなら未だにこの地上は堕落圏の中にある。心の平安と身体の安逸を誰もが求めながら、それを得た時人々は幸福だと感じる。いや感じるはずだと思っている。しかし本来の心の平安は自分の内面の闘いが終らない限り訪れることはない。心の平安と言いながら妥協的なものに留めようとしている自分をわかってはいない。人間はどのような人間であっても根源的に神様に繋がっている。器官の一つ一つ、四肢の一つ一つ、細胞の一つ一つ、全てが一つになって統一的人間となっているように、人間ひとりひとりも神様の身体の一部であり、更に神様の心の一部でもある。器官のひとつ、腕や足のひとつが独立して存在できないように、自分だけの心の平安、身体の安逸は有り得ない。もし地上に於いて自らの根源的なものを覆い隠して楽しく過ごせたとしても、霊界に於いては根源的なものに帰っていく。その場で地上的、物質的、自己中心的、感覚的なもの一切は全て反転して根源的自己に降りかかることになる。天的であり霊的であり、更に他の為に生き心情生活を為しながら、そうであれば生きることが闘いだという意味合いはわかってくる。

2010年7月3日土曜日

三隅のつつじ

浜田をまわって9号線を西に走れば時間的には近かったと思うけれど、父はわざわざ山奥を抜ける蛇の様に曲がりくねった細い県道を走らせた。道に迫り出した樹木の枝葉に陽は遮られ、小さな車一台通るのもやっとで、とても速度を出せるような道ではない。それでも父はこれが近道だと言うので、そう言うことにして頷いたけれど、国道へ回り道をしていればもっと早く着いただろうにと言う思いは残ったまま運転し続けた。林道に近い道を半時間難儀しながら、最後のカーブをハンドル目一杯切って回りきると、大きな車道に出た。ほら穴を抜け出たように視界が一変に開けた。そこから目的地まではものの十分もかからず、国道を右にそれ集落の中を通り抜けると三隅公園の表示が現れた。石灯籠に挟まれた神社の参道が前に延び、粗末な矢印表示に従って右の駐車場に乗り上げると、色鮮やかな山壁が突然目の前に姿を現した。フロントガラスに身を乗り出して上方に覗き込んでも、更に上の方まで色彩は延びていて、空の青への境が見届けられない。一同、車の中で歓声が起こった。逸る気持ちを抑えながら丁寧に駐車すると、カメラを手に外に飛び出した。そそり立つ山壁の全域にツツジが植えられていて、色鮮やかな小振りの花々は満開で、位置によっては全体が大きくせり出してもいる。大して感情表現はしない父や母も流石に驚いたようで、見事なことだと何度も洩らしながら首を巡らしていた。前日の雨模様に潤った花々は、快晴の空の青を背景に、五月の太陽の光を赤紫(あかむらさき)、薄紅(うすくれない)、薄桃色、純白、それぞれに反射しながら、甘い香りと共に、見るものを四方からも上からも包み込んでいる。父は足が弱く、妻も病から来る慢性貧血で階段を上ることすらできないので、ツツジの花の中を縫うように登って行く鑑賞の為の登り道を歩くことは出来なかったけれど、下から見るだけでも十分に酔うことが出来た。あと十日もすれば全ての花は一斉に枯れ始めるだろうに、後先を考えず今を精一杯咲き誇っている。一片丹心の化身のような、この一途な花に対する畏敬の気持ちを持たなければこの場に立つことは許されない。花々の何層にも重ねられた精誠が天に向いて咲き、音を紡ぎ出してこだましている。この場で心の耳を傾ければ、弦楽重奏のように物質界の音を超えた音で楽曲を奏でているのを感じ取る。私の感情魂が受け取って共鳴し、内面に響き渡り、いくら贅を尽くした者もこの贅沢には及ばないだろう。町内会の露天で父が注文した、たこ焼きとコーヒーというアンバランスに苦笑しながらも、挽きたてのコーヒーを啜りながら、皆でこの一期一会を味わっていることに感謝した。

2010年7月2日金曜日

ホタル

アパラチア山脈に沿って、山の中腹を走る81号線をひたすら北上する。夕食を済ませて帰路についたものだから出発すると直ぐにも眠気が襲い、ハイウェイのレストエリアで半時間ほど仮眠した。結局本格的にハンドルを握ったのは6時を回ってからで、順調に運転し続けても家に着くのは夜中の2時を過ぎる。それでも30分の仮眠は十分に体力を回復し、車は緩やかな起伏を快調に滑っていく。夏時間では八時半を過ぎてやっと暗くなり始める。助手席の娘はシートを幾らか倒して休み、右に視線をやれば助手席のウインドウから暮れかかった町並みが下方に広がっているのが見える。結構見た目よりは勾配が急なのか、坂道に弱いトレーラーは皆加速に手こずっている。追い越し車線をずっと走りながら何台も追い抜いていくけれど、思ったほどには速度メーターも上がってはいない。単調なハイウェイを走っていると、道路の両脇に微かに点滅するものが目に入ってくる。それが蛍であることに気付くまで少し時間がかかった。山伝いのハイウェイには照明灯は並んでいない。ヘッドライトが両脇をも照らすけれど、それでも蛍の光は確認できる。両脇に続くブッシュに道なりに蛍の光が点滅している。少し高みから全体の光景を見ることができるなら、天空の天の川が地上に映し出されたように見えたことだろう。夜に人工的な光の全てを絶やした時に、地上から発する光は火山活動に見るような不気味な光だけだろうかと思ったことがあるけれど、蛍の光も確かに地上的な光だ。蛍がどのような種別的集合魂、即ち蛍種の精霊として存在しているかは定かではないが、蛍が群舞する中にたたずむことで夏の暑さを冷まし、熱を帯びた魂は光の点滅の穏やかなリズムに揺らぎながら落ち着いていく。清平の心情の木に天使の光が鈴なりに群舞し、ロウソクの明かりのような暖かな光を灯しているように、どこか癒しの暖かさを覚えるホタルの光、蛍の精霊はより天使に近い存在なのかも知れない。81号線は平野のハイウェイとは違って、標高の高い位置を走っている。より天に近い位置を、蛍の光に導かれる形で走りながら、本来疲れて当然の長時間運転は、疲れるどころか癒されながら帰路に着いた。

2010年7月1日木曜日

空の青

夜が明けて、光が地上に届けられる。光が満ちるに従って空の青は次第に濃くなっていく。私達は空の色を青色と判断する。空に青の色素が鏤められている訳でもないのに、空に青色を見ている。空を青色と認識させる存在があることを、地上から上空を見上げることで理解する。空を青として目に映らせる存在は宇宙の生命を担う存在として可視的に現れている。地上に於ける植物や動物の物質体を担う生命体を可視的に認識することは出来ないけれど、空の青として目に映りこむものに地上の全ての生命体を担うものを見ている。生命あるものが生命あるものの活動を為す力が空の青から流れ込んでいる。空の青から流れ込むものを、何の障害もなくそして欲張ることなく人間が受け取ることが出来れば、人間はあらゆる病を克服できるだろう。しかしながら堕落人間は人間としての健康体を阻むものをも内に有している。病んで生命を謳歌できない状態を体験することが、その人に取っての地上生に於ける蕩減的使命として運命的に備えられている。生命の尊さ、健康の有難さは、病に苦しみ、それを渇望した者であればあるほど理解している。病知らずの健康的生命そのものを何の心魂的痛みも覚えずに手にするなら、堕落人間は人間理想をいつまで経っても掲げようとはしない。人間理想を掲げることをやめれば何処までも動物存在に堕ちていく。創造本然の人間理想を掲げながら捨てずに今日まで来れたのは、体の痛みや心の痛みを克服できる精神の高みを得ようと努力してきたからだ。空の青から流れ込むものを、生命の尊さを味わい尽くした後に受け取ることが出来る。淀みない空の青で私の生命体が宿り、光り輝く柔らかな水晶体とも言える、健康体以上の健康体を受け取るならば、それに勝るとも劣らない心魂様相を備えた真の愛の人とならなければ、身体が逆に私を讒訴する。空の青に没頭し身を委ねることで、人間本来の生命体に思いをはせることができる。光り輝く本然の人間が住まう、地上の器は、ブループリントとして空の青に既に刻印されている。