2010年8月20日金曜日

送り盆

丘に向けて一群れの列が上っていく情景を覚えている。子供の目には随分遠くの景色のように思えたけれど、今その場に趣くと丘に向かう小道は目と鼻の先で、そこを歩く人の表情さえ捉えられそうだ。しかし子供の目には黒い列がゆっくりゆっくりと移動していったことしか記憶に無い。でも先頭に担がれたものが祖父の作った樽だと思ったのは覚えているので、詳細は忘れてしまって黒い列の移動だけが印象的な記憶として残っているのかもしれない。その丘の上には焼き場があった。うちの田んぼから、焼き場に向かう葬列は何度か目にしている。葬列が森の中に消えて半時もすれば、白い煙が昇っていく。誰もが農作業の手を休め、腰を起こして暫く眺める。無言のまま眺め、暫くするとまた無言のまま作業を始める。子供の私は恐いのか何なのか良くわからない感情を覚えながら、父も母も大した反応も示さずいつもの様に農作業を続けるのを見て不思議に思った。大人になればこんな感情を抱くことは無いのだろうかと思った。程なく煙は途絶えるが、一帯の微かな臭いは日が暮れるまで留まっていて、いつまでも煙の立ち上る情景が頭から離れない。ある時、同い年のいとこに誘われてその丘に登って見ることにした。それまでその丘に視線を向けることすら避けていたのに、いとこの誘いに拒めない何かを感じたのか一緒に行くことにした。田んぼに挟まれた真っ直ぐな小道を早足で歩いていく。ここで躊躇していたら恐れの感情に押し潰されそうになるから一気呵成にやり遂げようと思った。口に出すことは無いしそんな素振りも見せなかったけれども、競争するように歩くいとこも同じ気持ちだったはずだ。登りに差し掛かると小道は更に細くなり、雨が降った時は麓に流れる水路になるのだろう、道の中央がえぐられていて登りにくい。息が上がって気持ちが発散してくると恐れの感情は次第に消えていく。登りきって木立を抜けたその場所がそうだった。大人の身体がひとつふたつ入るような浅い窪みがあるだけの簡素なものだった。敢えて焼き場と言われなければゴミ捨て場としか思えないだろう。別に立て札があるでもなく焼け残った骨がある訳でもない。しかし登りきって私が最初に目にしたものは浅い窪みではなく、周囲を囲むように実っていた鈴なりの赤いほうずきの実だ。ひょっとして何か見てはならないものを目にするのかという不安をよそに、ほうずきの色鮮やかな赤が最初に目に飛び込んできて私を逆に驚かせた。お盆を過ぎた夏休みも終わりに近い頃だった。ほうずきは鬼灯と書く。当て字にさして意味は無いのだろうけれど、世話になった肉体をこの場で土に返して、迷うことの無いよう鬼灯をかざしながら、お迎えの霊の処まで赴くのだろう。お盆の墓に紙灯篭をかざしてお迎えするように、鬼灯の一枝を手にして帰っていくのだろう。ほうずきの実をひとつずつ戴いて、破れないように指で丁寧に揉みながら、暮れかけた道を集落の明かりを目指して帰っていった。早いもので今年もお盆を送った。暫く連絡していない田舎に、明日にでも電話してみようと思う。

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