2010年8月24日火曜日
今日の想い (212)
痛くて眠れないらしくて背中や左肩の方を暫くさすってやる。疲れたらやめていいからと声をかけるけれど、他人でもないのにいつも遠慮がちなのが気に喰わない。だから返事もせずにさすり続けた。背中の方も肉が削げていて、殆ど骨と皮しか残っていない。それでもさすってやれば少しは落ち着くのだろう。深く眠ることはないが時々寝息を立てている。いつも妻の病に向き合おうとすれば、自分の無力さに打ちひしがれる。壁にかかっている御写真の微笑む御姿に、正面から目を合わせられない。ひたすら彼女の背中だけを見ながら、病の本質的原因を探している。明日への希望に繋がるものを探している。さすりながら骨に当たる手の平の感触から、どう希望を見出したらいいのだろう。ふと、病に苦しんで死んでいった祖父の顔が頭に浮かぶ。希望は霊界にこそ、繋ぐべきなのだろうか。向こう側では痛みから解放されているのだろうか。思い浮かぶのは苦しむ祖父ではなく安らかな祖父なので、きっと痛みからは解放されているのだろう。彼女がどのような状況になり、私がどれほど妻への祈りを引き裂かれようと、それはそれで受け入れる覚悟はしている。しかし今までもそうであったように、受け入れるまでは相当の葛藤が渦巻く。私はどうしたらいいんだろう。私の願いや祈りは御心に沿わないのだろうか。尋ねてみても一瞬や一言でケリが着くような内容ではないことは解っている。何度も何度も尋ねてきた内容だ。自分だけが全ての重荷を背負っているようなこの感情気分は、ある意味傲慢なのかも知れない。神様の重荷を見ようとしない魂の無知から来る傲慢なのかも知れない。この状況下で前向きでいられる知恵は持ち合わせてはいない。明らかに私や妻よりも重荷を背負い、それでも明日を見つめて生きようとしている人に対して、深く頭を下げて知恵を請わなければならない。
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