2010年8月28日土曜日

痛みを考える

旧盆が過ぎ、夏は峠を越えて急に涼しくなり、責めるような暑さは遠ざかったのに、妻に対する責めは相変わらず続く。痛い痛いを何度も何度も口にしながら、一日を生きていく。今日の痛みを終えたら明日の痛みが待っている。明日の痛みを越えた後にも更に次の日も痛みは待っている。痛みを生きることの意味は何だろうか。身体の痛みがどう痛みの感情として魂が味わい、それがどう霊的なものに繋がってどう影響を及ぼすのだろうか。痛みを魂一杯で体験しながら育まれるものは何だろうか。責めを責めとして受け止めることしかできないなら、痛みの本当の意味は知らずに生涯を終えるしかないだろう。しかし知ろうが知るまいが、地上での痛みは必ず天上で報われるはずだ。そうでなければあまりにも切ない。切な過ぎる。恨の想いは恨みとは違う。恨みが目には目をという地上という同じ次元で報われるなら、恨の想いは次元を超えたところで報われる。痛みを受けるなら痛みとして晴らすのではなく、痛みを通して次元を越える手段とする。痛みを受け取りながら心情圏への切符を受け取る。痛みを覚えた者ほど優しさをその魂に育み、癒しを与える存在となれるのはその通りに違いない。それが次元を越えた心情圏で受け取ることが出来た意味だ。肉体を削ることで、自分の本質である自我が求めるところの、相手を気遣う優しさという霊的肉を受け取っている。肉体を犠牲にして霊的なものを受け取る。おそらくそうなのだろう。霊的感性が鈍い無知な現代人の悲劇がそこにある。霊的なものがわからないから、恨みとして地の底へ自我を追い遣っている。人間の本質が求めるものは誰もが忌み嫌うものの中にこそ隠されているのだろう。それを夢や空言だと思うのは、霊的なものがわからないのでそう思うだけで、それこそが本当の現実に違いない。妻も痛みの真っ只中では認識はできないだろう。しかし蕩減という言葉は知っているので、その言葉から導き出される内的な意味を探ろうとはしている。今は彼女が痛みに感謝するその時が来ることを私は信じるしかない。そして彼女を見る私の心の痛みにも私自身が感謝するその時が来ることも信じている。妻は明日も痛みを訴えるだろう。しかし明日の痛みは今日の痛みとは違う表情をしているはずだ。

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