2010年8月17日火曜日
地球を少し考えて見る
宇宙の生成の歴史、取り分け地球生成の歴史と人類の歴史とが全く別物として今日まで流れてきたとはどうしても思えない。人類歴史に於いて内的霊的に積み重ねてきた内容が、そのまま外的な地球生成とその歴史として現れて当然だという思いがある。もう少し踏み込むならば、物質人間が物質地球の成分で出来ており、それは物質人間は物質地球の一部であると言う事ができる。人類が堕落して人間の器官に霊的感性が眠らされ、病に冒されるような要素を持ってしまったと言う事は、地球自体も霊的に死んだ状態であり、更には地球自体が病んでいると言う事はできないだろうか。そればかりか、地球が人類始祖の堕落による決定的なものを地球自体が結実として孕んでおり、更にはカインとアベルの失敗の結実も地球の要素として持っているだろうし、復帰歴史に於ける勝利の果実も負の悪果も地球の内部に持っている。地球生成とその歴史に於いて、全く人類の歴史とは関係が無く、神様が直接的に主管してこられたのであれば、ロマ書八章に記されているような神の子たちの出現や被造物の嘆息の事実はどうも不自然だ。万物も地球も神様の御意そのままに生成されてはいるが、主管してくれる存在が不在だとだけ嘆いていると言うのは、どうも説得力に欠ける。人類の堕落によって主管下にある地球自体も堕落の影響を受けているはずであり、その後の復帰歴史過程の結果それぞれの影響も受けているに違いない。従って地球内部に必ず堕落の結果を見るものがあり、更に人間はその影響を地球から受けているはずである。宇宙を地上的な五感で捉えきれないように、地球内部も地上的な五感でのみ把握できるものではない。内的霊的感性、それも高次の感性で知ることができれば、今の科学の地球認識とはかけ離れた悪魔的なものや神霊的なものが認識されるかも知れない。天国と言えば天を仰ぐし、地の底をどこまでも下っていけば地獄だと言うのが全くの根拠の無いことではなく、それなりの意味を含んでいるはずだ。
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