2010年8月9日月曜日
今日の想い 203
第一のアダムは堕落したエバとひとつになってしまった。第二のアダムは相対としてのエバを迎えることができなかった。第三のアダムは理想相対のエバを迎えられた。アダムは生命の木と例えられることに対して、エバは善悪知るの木と例えられる。エバがどう自分を扱い、扱われるかが善と悪の分かれ目だと言う事だ。創世記、失楽園の部分にだけ触れて想起されることは、このエバの思慮の無さは一体何なんだろうと言うことだ。おそらくそう感じるのは私だけではないはずだ。霊界からの先生の証しを通しても、なるほどエバはそうならざるを得なかったと思うより、戒めの戒めに対する重さというものが当の本人に本当にわかっていたのだろうかと思えるほど、エバの無分別さが受け取れる。現代人のように極めて地上的受肉を為された存在とは明らかに違い、霊的領域への比重が強いだろうから、現代人の三角関係のような状況に当てはめてイメージすることには無理があるが、それにしても軽々しい感じは否めない。おそらくルーシェルが我々の想像を絶する知恵者でありエバに死を覚悟させるほどの存在であったということだろう。堕落の結果は途方も無い犠牲をもたらしたけれど、逆説的に捉えればそれ程の犠牲に値する愛の価値があるということでもある。善悪知るの木エバは何億倍もの破壊的原子爆弾でもあり、逆にもうひとつの宇宙を創造できるほどの力を備えてもいる。そう思うと、勝利された御母様は人類に取っても宇宙に取っても、勿論御父様に取っても神様に取っても、かけがえの無い存在であられることがわかる。御父様を御父様と呼べる私は、御母様が勝利されることで庶子であっても御父様の子であることを御母様に認知して戴いたと言うことだ。御母様が認めずに、御父様と呼べる私が存在することはありえないだろう。御母様が私の御母様としておられるけれど私には産みの母もいる。産みの母を責めることができないように、人類始祖としてのエバを責めることは人類はしてはならないのかも知れない。
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