2010年8月2日月曜日

私の宇宙と言う芸術作品

この目をして光を認識しているようだけれど、光そのものを見ているのではなく光によって反射される存在を目にしている。反射される物質の無い宇宙空間では光が通過しても認識することは出来ない。私達は周囲に色とりどりの存在を反射されたものとして目にしているけれど、存在を認識しているのではなく光を認識しようとしている。存在を目にしながら光を認識しようとしている。存在を目にするだけでなく認識しようと思えば、光に反射されて目に届くことだけに満足してしまうと認識することはできない。事実、私達は何一つ本当の意味での認識には至っていない。科学の分野でいろんな存在に対するいろんな研究がなされてきたけれど、専ら地上的な側面に関する外的な研究のみで、思考の光に照らして受け取るものや、感情の光に照らして受け取るものまで、謂わばその存在の内的霊的なことに関する研究が為されて来たわけではない。人間から霊的感性が遠ざけられて久しい。地上的物質的感性を益々鋭くさせながら、霊的感性の芽が自分の中に備わっていることさえ忘れているし、霊的なものを否定してさえいる。芸術は本来、内的霊的深みを芸術作品に表しながら内的霊的高みに人間の魂を誘うものを言う。その作品からそれが受け取れず、目に優しく耳に心地よいだけのものを芸術とは言わない。芸術こそが霊的感性を失った現代人に存在の本質を垣間見せる。或る存在を描こうとし、或る事柄や生き様を譜面に乗せようとする、その意思こそが霊性のひとつひとつを芽吹かせる。書いてもいいし、描いてもいい。歌にしてみてもいいし、いろんな表現方法で表現しようとすることで様々な存在を認識することに向かおうとしている。存在が扉を開いて私の思考に働きかけ感情に語りかけるようになる。そのような生を生きてこそ人間は死亡圏から生命圏に移っていく。一方で人間を導いてきた宗教圏が無かったなら芸術は地上に現れることは無かっただろう。芸術は宗教圏の申し子だ。高名な画家や音楽家の作品のみが芸術ではない。彼らの芸術創造を通して内的霊的高みへの喚起を呼び起こされるなら、私の周囲の存在や起こる全ての事柄が、甘受と感謝を基調とする私の創造意志を通して、次元の高みに持ち上げられる。私の環境が私の人生が、ひとつの私的宇宙という芸術作品を創り上げようとしている。その宇宙の中に太陽としての御父母様がおられるだろうし、いろんな出会いや出来事が私の中で昇華されて色とりどりの森羅万象になっている。毎日が同じように繰り返されるのではなく、今日の家族の今日しか見せない顔を見合わせながら、一期一会の瞬間瞬間に思考を受け取り思考を働かせ、感情を受け取り感情を働かせて、人生の彩りを重ねながら私の宇宙に取り込んでいる。

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