2010年8月6日金曜日

緊急入院 (2)

体力の限界を迎えても、それでも数十秒毎に襲い掛かる激痛に体を硬直させざるを得ない。目に見えない何かが彼女を拷問にかけている。見えない何かが薄ら笑いを浮かべて、何度も何度も彼女に対して鞭を振り上げる。妻は一晩中この痛みと闘った。私は一晩中不安と闘った。モルヒネを何本打っただろうか。副作用としての吐き気を強くもよおすのみで、痛みを薄らぐ役目は殆どしない。私が妻の立場だったら、泣き叫んで神様に談判するだろう。関わる霊に対して悪態の限りを曝し、脅しの言葉すら撒き散らすだろう。しかし彼女の意識は常に外的な事柄に向かう。若い時の苦労が体を弱めたことから始まって、高血圧やリジェクションのための薬の影響、今回の事がもし感染であるとするならどういう形で菌が体内に混入したのかと言う様に、痛い思いを何度も経験し、これ程に不合理な人生を生きながら、自分だけがどうしてここまで打たれるのかと言う発想はしない。あくまで外的要因に視線は向けられる。朝を迎えて、妻がやっと浅い眠りに着いた時、院内のチャペルに足を運んだ。簡単な祭壇を前にして頭をうなだれ、彼女の痛みを取り払って欲しいと率直に祈った。神様を賛美し、み言に触れるような立派な祈りではなく、ただ懇願した。霊的なことの認識がなされず、外的要因を挙げて痛みを受け続ける妻は、それ故に好きなように霊的存在から翻弄されている。その現状を報告すれば、神様は妻を悟れない現実主義者と冷ややかな視線を送られるだろうか。それとも可哀想だと思われるだろうか。仕方の無いことだと見て取られるだろうか。祈りながらそう問いかけると、私の体を通して神様は涙された。ただ涙されて妻の立場を説明されることもなく、良いとか悪いとか判断されることもなかった。救急病棟の妻の病室に向かいながら、もはや彼女に病の意味を諭すようなことはすまいと思った。ただただ隣にいて、手を握り背中をさすり、労いの視線と励ましの言葉をかけることにした。どういう認識であれ、彼女は彼女として現実に向き合い、私ではない彼女こそが痛みに向き合って闘っている。

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