2011年3月31日木曜日

七日断食の思い出

私達が祝福を受けた条件の一つとして七日間の断食がある。私が初めて七日断食をしたのは献身生活を始めて間もない頃だったと思う。十八を過ぎたあたりで、共に生活していた勤労青年の一人と偶然にも一緒に条件を立てることになった。同い年だったので何かと頑張り屋の彼を意識していたが、余りの信仰基準の違いを見せ付けられたのはこの七日断食だった。朝の聖地祈祷のランニングも、彼はしっかり食べている兄弟達に劣らず馬力をかけて走っていたのに比べ、私は足も上がらず相当後れてしまい、歩いて行くのが精一杯だったし、食への未練を断ち切って聖業に歩む彼に比べ、私は食欲を主管できずに食堂の前にたたずんで条件が終わったらあれも食べようこれも食べたいと、日を重ねる毎にそんな調子だった。大きく差をつけられたのは断食明けの時で、私が早々と祈祷を終えて食卓につき、出される食事だけに関心がいっていたのに比べて、彼は涙ながらの深い祈祷に入ってなかなか祈祷室から出てこない。やっと祈祷を終えて出てきて食卓に着いて箸を取っても、涙をとうとうと流しながら、聖霊に満たされているらしく申し訳なくて食べられないと言う。彼の信仰的姿勢に溜息を漏らす兄弟姉妹を横目に、何食わぬ顔で箸を進める私は微かな屈辱さえも覚えた。今思うと何とも外的唯物的な若かりし頃の情けない私だったと思う。断食条件は、食べるなと言われて我慢する、食欲を主管することのみが主題ではなく、肉的衝動を否定して生じる肉の渇きに対抗し得る、魂の力を目覚めさせることにある。正しく断食を行えば万物への感謝と共に、 肉の存在である以上に私は魂の存在であることを認識できる。意識をより高次に投げかけ、高次の認識を受け取る為には、今頼っているものを犠牲にする必要がある。私が更に魂の存在から霊の存在であることを認識しようとするなら、眠りを断つことが必要なのかも知れない。食を断って魂への目覚めを体験すると言うなら、魂の食(生命体の食)である眠りを断って霊の目覚めを体験できると言えないだろうか。ギルガメッシュが不死を願って西方浄土に尋ねて行き、義人ノアと思われる人物から七日間眠らないようにと言われたが、眠りに勝てず七日間眠り続けてしまった。それで不死に至ることはできなかった、即ち永遠の霊的生命を受け取れなかった。人間は肉体の支配を受けているから断食という象徴的肉体克己を通して魂による肉体の主管性を復帰する。更に堕落的魂の支配を受けているから眠りをコントロールして神霊による魂の主管性を復帰する。それはいかがわしくもある私の独断的仮定に過ぎないが、霊的力と眠りに対する主管力は通じるものがあるように思う。

2011年3月28日月曜日

今日の想い 283

往々にして御父様は無理難題を私達に差し出される。私達にすれば方法論として首を傾げる内容であったり、時には私の悟性が全く理解せず感情にも受け入れられない事もある。しかし一方で私達は、どうしてそのような無理難題を差し出されるのか、その意図をおぼろげながら汲んでもいる。私達の魂を御父様の魂の高みに引き上げ、真の愛が体恤され、私の全てを生まれ変わらせる為には無理難題を受け入れるしかない。心情相続の路程は論理を超えなければならない。特に御父様の間近で侍っておられる先生方に要求される信仰は、死ねと言われた方がまだ楽だと思われるほどで、御父様から距離を置いている者達が彼らをどうこう言い得る立場には全く無い。御父様は子女である我々の中から、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになる聖徒を探しておられるし、そのように訓練してもおられる。おそらく唯一人の聖徒だけでも立つなら、代表した立場で子女全体として絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準が立ったとみなされるのかも知れない。どう見たって食口の全てが基準を立てることなど、自分を見ても周りを見渡しても難しい。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てる者があるなら、彼は天使長を超え、天使長に変わって勝利した者だ。しかし一人の聖徒が立つ為には、彼を支える食口達の多くの精誠が崩せない城のように霊的基盤として供えられなければ難しいだろう。食口が並列に並べられてその中から一人の勝利者が現れるとは思えない。御父様が先生方を咎められるとするなら、支えるほどの精誠が足りなかった我々であるという認識は間違ってはいない。天使長の罪は天使長に従い天使長を支える多くの天使達の罪でもある。であればこそ聖書に記されている堕落した天使達という複数形が納得できる。もし御父様が間近で侍られる先生方を咎められ、兄弟達が口を開いて同じように咎めるとするなら、お門違いも甚だしく自分自身を貶めているに過ぎない。何も分っていない食口達の所業を御覧になられて、御父様の落胆がどれほどのものであるか、知る由もない。

2011年3月27日日曜日

今日の想い 282

傷ついたといって、その傷口を舐めることだけに終始するのであれば、私の魂全体に傷は広がり魂は腐っていく。舐めながら実のところ傷そのものをいとおしんでいる。傷に愛着を覚え、傷を放そうとはしない。癒されない私の魂は、その在り様が既に愛を拒んでいる。愛は魂を開かずには流れ込んではこない。傷に閉じこもり内に内に向かうだけであれば愛の流れを堰き止め、逆流させようとさえしている。確かに恐れであれ不安であれ、苦悩であれ焦燥であれ、魂の傷や病を抱えたままで処理できずには次のステップには進めない。そう思い込んでいる。では私が抱えている恐れや不安が消え失せ、心配事のひとつもなかったなら魂の新しいステージに向かおうとするだろうか。私達の魂は罪の歴史を通して既に病んでいる。堕落性に染まりきっている。堕落性だと認識している私の性品は認識しているだけ問題はないが、実は堕落性だとは気付きたくもない堕落の魂を基盤に置いて生きている事の方が問題なのだ。その偽りの自分への執着を開放できずにいる。魂の表面に浮き上がってくる感情としての傷や病は、その対処の為に精魂を投入するけれど、魂の深いところに沈殿している毒気の強いものに対しては無視し続けている。本来はそれこそが問題であり恐れるべきであり、その根底を掃除する為に精魂を使うべきだ。魂に波風を立てる遺棄したい感情が、人生の中で様々な出来事と共に持ち寄られる。しかしそれらは、それを通して学ぶべきことがある学習教材だ。表面的平安が私の願いでもないし、表面的平安の為のご利益信仰でもない。傷口を舐めながら恨みを募らせるより、先ずは呑み込むための甘受する力をみ言葉から受け取るべきだ。その吐き出したい程の苦い薬を呑み込むことで、魂の奥に働きかけるものがある。私の魂の背後の中心核には御父様がおられ、御父様が正しくその薬を用いながら堕落的魂を根治される。

2011年3月26日土曜日

今日の想い 281

田舎は未だに一メートル近くの積雪がある。この冬はドカ雪が何度も襲ってきて、その度に地球の裏側から心配の電話を入れた。積雪によるあばら家の倒壊もさることながら、除雪の重労働で難儀する、足も悪く年老いた父への心配もあった。何とかこの冬を越えたようで安心したが、二メートルを超えるほどの積雪は久方ぶりだった。空家ばかりが数件点在する寂しい田舎に、このまま二人を残しておいていいものかどうか、一度は成り行きに任せるしかないと結論付けた事だが、かつて無い日本の状況を見るにつけ、統一食口として逃げて背を向けているこの状況を変え得る何かを持ち合わせてはいないのだろうかと考え始めた。全てを捨て、親をも捨てた献身路程が当然だった日本の食口は、錦を飾って帰る事もできずに、子供の霊的生命の心配と共に、親の心配をも抱えている。ましてや長男であったり自分以外誰も親の面倒を見る者がいなかったら尚更だろう。アメリカにいる親しい兄弟は三陸の出身で、この震災をもろに被り、年老いた親兄弟は被災地生活を余儀なくされている。連絡が付かない兄は犠牲になったらしい。それに比べれば大した心配ではないのかも知れないが、多かれ少なかれ後ろ髪を引かれる様な現実が心を占めてきて、み旨への意志を欠こうとしている。しかしその悲観的気分にうな垂れたままでは、何の為の信仰生活であったのかということになる。その気分は既に現実に巣食う堕落的なものに負けてしまっている。親を捨て、故郷を捨て、そして日本までも捨てて歩めと言うのではなく、更に現実から逃避しろと言うのでもなく、捨てたのではなく超えた位置で受け取ったものがあるはずだ。受け取るものを受け取ったら、その超えた位置から日本を救い、故郷を救い、親を救う使命が私達にはある。現実から逃げるのではなく、現実を変えていく。その力は受け取ったものから取り出して余りあるはずだ。それはこの世的実力でもなく更に言えば人格でもない。いい人だと思われ自分で認めるとしてもチョウンサラムで救える訳ではない。私達が受け取ったものの一つは、真の父母の名による霊界動員をかける権限だろう。絶対善霊、祝福先祖を今の今動員できなくて、何の為の霊界解放だったのだろうか。その意志を動かせないと言うなら、大体霊界そのものを信じていないか知らないということになる。今一度、立ち上がって全天宙に宣言すべきだ。日本を救い、故郷を救い、親を初めとする氏族を救うことを声高らかに宣言すべきた。そうすることで先ず権限を行使する土俵に上がるべきだ。

2011年3月25日金曜日

人類史を考える (2)

現代人は思考を最も発展させるように精神の力を注いできたし、最も賢い者が人類の頂点に立って世界を主管してきた。洪水審判前後の霊性から思考への以降が、神様の願う人間のあるべき姿から益々遠ざかっていっただけだと見るべきではない。思考の無い霊性に身を任せれば、サタン悪霊の振る舞いに自分の身をまるまる預けるようなもので、事実それ故にありとあらゆる悪が蔓延した時代があったが、思考を備えることで判断ができるようになり、行動に対するブレーキを持てるようになった。しかし思考を発展させることで思考の力がある程度の人間性を回復させたとしても、神様が願った創造本然の人間の理想像からは未だ程遠い。霊性の存在から思考の存在へと移行したノアの時代が終末であったように、現代は思考の存在から愛の存在へと人間が移行すべき終末であると言える。思考が少なからず人間性回復への寄与を為した事実は認めるとしても、自らの思考を絶対視して、論理で計り知れない事柄は無きものにすると言うのであれば、思考で自分をガンジガラメにしてしまい、終末を超えて新たな人類進化への道からは外されることになる。自らの思考による論理で測れないものへの帰依、それが絶対信仰絶対愛絶対服従であって、それこそが終末の審判を超え得るものとなる。裸を恥かしく思ったハムが何故罪となったのか、現代思考でイメージしてもそれを罪にし得る論理は出てこない。ハムは霊性による感覚的行動を取るのではなく、思考を働かすべきだった。思考を働かせてノアの行動の意図、神様の意図を推し量るべきだった。新たな魂の力である思考で堕落的霊性による行動を主管すべきだった。真の父母を戴く現代の終末は、愛の力が思考の力を超えていかなければならない。しかし、自分の思考の範囲では計れない愛という概念を認めず受け取れなければ私の未来は閉ざされてしまう。多くの者達は思考の罠にはまっている。自己愛は認めても他への為に生きる愛、犠牲の愛は認めない。自分に感情があるように魂は認めるとしても霊界は認めない。自然の力への帰依は認めても神様は認めない。み言葉の素晴らしさは思考人間でも真の愛の力を認めさせ、更に真の愛の力を相続させることだ。2013年を超えて生きる新しい人類は、確実に真の愛の力を相続された者達だ。真の愛の力が宇宙を世界を主管する、愛の時代が開かれていく。しかしながら神様に取ってもどかしいのは、祝福家庭が豚に真珠を与えるようなものであり、一世が二世に受け継ぎ、二世が一世から相続する真の愛に対して、その力を認識できず、その価値を受け売りでは説明できても実感としての手応えが無く、この世的価値観に押されがちだということだ。

人類史を考える (1)

人類歴史は人類始祖アダムエバから現代まで滔々と流れてきたが、遡れば遡るほど人間がどういう在り様をしていたかを見届けるのは難しくなる。イエスキリストが降臨された二千年前を遥か昔の事の様に思えるけれど、人類始祖からの何万年とも言える時の流れに比較すれば、二千年は僅かの期間だ。人類歴史は記録として残っていない期間の方が遥かに長く、人類始祖が内的に外的にどういう在り様をしており、どう変化して来たかを問うには、結果を見るに留まる現代の科学では到底無理だろう。人間は考える葦であるとパンセにある様に、現代の思考の在り様が人類歴史を通して存在していたと思っているけれど、思考は発展させてきたものであって現代人と同じような意識状態が古代の人々にも同じようにあったと思うのは間違いだ。人間の思考が現代に於いては頂点に達しているが、思考魂を培う過程で逆に失わなければならないものがあった。それが霊的な感性であったと見る。現代人は思考で論理を形作り、元素基準(鉱物)への主管性を備えて文明を発展させてきたけれど、沈んだ大陸に住んでいた古代人は、霊性をもって、植物動物にある生命への主管性を備えて文明を発展させていた。現代が機械文明なら、古代は生命文明だ。生命の力、とりわけ種子に閉じ込められている生命の力を自在に操れる霊性を備えて、現代の機械に変わる利便性を追求していた。しかし古代人も堕落人間は堕落人間であって、霊性の力を専ら利己的動機で乱用したが故に神様の願いからあまりにもかけ離れ、神の審判(ノアの洪水)を仰ぐことになり、選ばれた者達によって新しい歴史を出発させた。人間が思考の力を発展させていったのはそれ以降であり、それと共に霊性の力を失っていった。

2011年3月22日火曜日

クロッシング

韓国映画、クロッシングを見た。脱北者の話なのだが、北の生活の悲惨さや、思想や政治への憤懣が背景にはあるものの、決してそれらを中心題材にして描写している映画ではない。最初から最後まで一貫して流れているのは、人間愛への賛歌だ。最後まで問いかけの形を取ってはいるが過酷な現実からの愛の抽出だ。貧困と病気、虐げと謀略。北に生まれたが故に運命付けられはめられた枷(かせ)に順応させられたまま、地に這いつくばって生を紡ぐのではなく、どんな環境にあれ、どんな状況に置かれるとしても、そこから滲み出して触手を伸ばし、愛する者の触手を探り当てて絡みつき一つになろうとする、愛の本質を詠い愛を賛美している。一握りの夢が次々と潰え最後のただ一つの希望さえも打ち砕かれて、映像は見る者を悲壮の中に引き込みながら幕を閉じていく。妻と一緒に見ながら、これ程の過酷な人生が現実としてあるという生々しい実感に、二人とも圧倒されてしまって涙も出ないし声も出ない。しかし主人公の回顧として最後に映されるセピア色の映像が、彼の体から霊が抜け出すようにして、過酷な現実から抜け出した美しい記憶の映像として流れ、見る者を安らぎに包んで引き上げる。彼の記憶の中には妻の笑顔、子供の笑顔が溢れている。何一つとして悲惨な状況に相対する記憶は彼から失せてしまっていて、悲惨にみえる境遇は美しい記憶を更に美しい記憶として際立たせ、光り輝く美しい記憶のみが彼の内面に無数にちりばめられている。表面的に見るなら神様へ向かう心を描いている場面がある訳ではないし、逆に神様がいるなら何故にここまでの運命を負わそうとするのかという問いかけさえなされている。それが返って見る者には本質を尋ねざるを得ないという、ここまでの意図が汲まれて演出されていたのかどうかは分らないにしても、私にはそう受け取られた。北韓に限らず、世界には未だ同じような境遇にいる人達が現実として存在している。神様と言う言葉を使おうと使うまいと、神様に対して呼びかけようが沈黙していようが、自由の環境圏にいる私達以上に生を生として彼らは生きている。死を突きつけられることで生を光り輝かせている。御父様を慕い侍る者として、私達は彼らを超えて生きていると言えるだろうか。生きることの本質に真正面から向き合って、生きていると言いながら実のところ死んでいるという、その堕落の位置から高く飛翔しているだろうか。彼らの基準を凌駕せずに祝福家庭だ天宙復帰だと言うのは恥ずかしい。御父様が私達に怒鳴り散らされるのは当然だろう。

2011年3月21日月曜日

先ず、眠りから覚めること

前にも触れたことをもう一度口にすることになるが、自分は周りを見てどういう行動を取るべきだろうかという、そこからの思考は既に間違っている。その思考判断は周りを見渡す所から始めていて、私の内的行動を度外視してしまっている。本当の思考は私の良心から出発すべきなのだ。私が私の良心に尋ねながら、良心の願いのままに思考を働かせる。それがどれほどの内的戦いであるか、良心と思考する魂の間には深い深い溝がある。そのクレパスを命がけで飛び越えるほどに葛藤を乗り越えたとき、魂は柔軟性を備え良心の前に完全屈服する。そうして初めて私の思考が意味を成す。その思考はしっかりと良心の願いに合わせて紡ぎだされ、意志を働かせて行動に出る。だからどうしたこうしたと言う行動のみに限って善だ悪だと判断することはできない。その行動の動機がどうであったか、行動にでるまでの内的な在り様がどうであったかを問われる。しっかりと良心の願いのままに行動したのであれば、周りからどう判断されどう見られるかは全く問題にならない。私の良心に誓って、という言葉の重さを知っている者なら取った行動に対して悔恨を覚えることは無いはずだ。み言葉を学んだはずなのに多くの兄弟は自分の良心を知らずにいる。良心を知らずに神様を知ることはできないし、良心を知らずに善なる行動を取ることはできない。相変わらず周りを見ながら判断して行動しているし、相変わらず自分の間違いに気付かないまま内的霊的に眠ったままでいる。眠ったままでは、み言葉も救いも祝福も、神様も御父様も霊界も、捉えどころも無く手ごたえも無い、時間を刻むほどに消え失せる幻想を追っかけているようなものだ。私の良心をしっかりと掴めないなら、それは祈ってきたとは言えないし、信仰生活を歩んできたとは言えない。

2011年3月20日日曜日

大きな魂を持とう

体の一部が怪我か何かで痛かったとしても、或いは体の具合がさえなくて万全でなかったとしても、身体全体としては補いながら生活行動を維持しているように、何らかの悩みや不安が棘や針が刺さっているように魂を傷つけているとしても、それに主管されない程に魂の奥から愛が溢れ出して癒していくプロセスを感じる私となることが大切だ。私は魂の奥からの溢れ出る愛を常時認識する時、私は魂が強く大きく、しかし柔軟性を供えて如何なる状況にも対処でき、如何なる状況をも更に魂の力に変える術を持つことが出来る。私が思うに、御父様は如何なる負の状況であっても、それを消化して魂の力に変える術を既に習得しておられるはずだ。御父様に取って恐いものは何一つ無いはずで、だから勝利された天地人であられるし、身体を持った神様であるとも言える。御父様の魂は地球を包み込むまでに大きく広く、太陽系銀河系を包み込むほどに大きく広く、更に宇宙、天宙を包んで余りあるほどに大きく広い魂を育まれた。霊的な目で見るなら、御父様の魂が遍く宇宙の果てまで届いているのを見届けるだろう。それは宇宙の端から端まで真の愛が届けられていると言うことが出来る。宇宙の何処でも住まわれる。言い方はおかしいけれども、宇宙人の全てを把握し、主管されている御父様であるということだ。私の内面に引っ掛かっている重くのしかかるような悩みや不安も、天宙を主管される御父様と一つの私であると認識するなら、笑い飛ばしているうちに、押し潰されそうな悩みも何時の間にか鼻糞ほどの取るに足りない事柄に変わっている。誰もいない野原か山にでも行って、大きな声で御父様億万歳と何度か叫べば、内面に巣食っていた闇も早々に退散していく。そうなのだ。私達は御父様と一緒に天宙復帰を為しているのだ。天宙のことを問題にしているのに何と些細なことで心配もし悩んでいる魂であることか。御父様の度胸を備えて、そのように振る舞いもして、腹の底から大きく響く声も出して、胸を張って進めば、面白いように運勢は転がっていく。統一勇士はそうあるべきだ。

2011年3月19日土曜日

今日の想い 280

デイライトセービングで一時間繰り上げられ、朝の六時はまだ暗い。冬の間は夜が明け始める前からカラスがうるさく騒ぎ立てていて、首をすぼめて店に向かっていたが、三月に入った頃あたりから玄関扉を開けると鳥のさえずりが迎えてくれて、少しは気分が晴れてくる。日本は原発の問題が深刻なようで、戦後最大級の災害で相当数の犠牲者を出しながら、それでも悲しみにくれている余裕も無く対処に追われている。東北の地域で歩んでいた期間は五、六年だっただろうか。仙台で先ずお世話になって車の免許を取ったり雑用を手伝ったりしていた。仙台を拠点に地方も回っていたので仙石線の沿線上は大体知っている。松島で降りてみ旨もやらず、日がな一日海を眺めていたこともあった。それから盛岡に移動したが、三陸の方に足を伸ばして宮古や山田町、釜石方面まで訪ねていった。宮古の浄土が浜の景色は昨日訪れたかのように思い出せる。最初に目にしたとき、奇岩もさることながら、海の緑色の深みが実に神秘的な美しさで、見つめていると呼び寄せられ吸い込まれそうで怖かった感覚が、三十年を過ぎた今でも残っている。どこを訪ね回っても素朴な人達がいて、セールストークは早々に終え、世間話や昔話を聞きながら漬物をつまんで茶腹を太らせた。いろんな思い出がある。あの地域一帯が壊滅状態だ。もちろん随分昔のことなので、私がいた頃の景色とは違うだろうけれど、それでもあちこちの景色が一つ二つと思い出せる度に感慨が深まっていく。当時の若い頃の歩みは深い思慮もなく、内的霊的なものを踏まえずにただ時が過ぎ去れば何とかなるようないい加減な歩みだったが、それでもその地で歩んだ以上私と因縁があったと言うことだろう。私が今踏んでいるこの地も先の事はわからないけれど、取り敢えずは鳥の声を愛でることができる安全域に居ながら考えている。私は被災地のために何ができるというのだろうか。情けない話だがどうしていいのか未だにわからない。安全圏にいることが負目になっていて、下手に何とかしようという焦りで意味も無い意味付けを試みているだけだ。誰かに非難されて心が痛むなら、それはそれでありがたい。

今日の想い 279

最愛の家族を失った多くの人達がいる。彼らは気持ちをしっかり持ちながら残された者の務めを健気にこなしている。しかし彼らの多くは霊界の存在を理解もしていないし、もちろん原理も知らない。今は避難所生活で目の前のことに精一杯であって内面に問いかけてみる暇もないが、少し落ち着いて彼らも必ず立ち止まる時が来る。その時に、どうして自分の家庭が犠牲にならなければならなかったのか、家族の夢や未来がどうして絶たれたのか、抱えきれないほどの納得できない感情的痛みを何とか癒そうと、その理由を必死で探そうとする。家族の肉体生命は絶たれたとしてもそれでも必ず生き続けていると、そう信じたいと思って闇雲に自分に言い聞かせながら、時が癒してくれることだけを期待しながら苦痛の日々を送っていくことになる。被災された食口も少なからずいる。食口であれば霊界への感覚は乏しかったとしても、原理を知っているし霊界が存在することも確信している。現実を受け入れることはそう容易い事ではないにしても、それでも犠牲の意味は理解できるし、天に訴えることもできるし、そして時間をかければ犠牲になった家族の想いを霊界から受け取れもし自分が癒されもする。同じ御父母様を真の父母として慕い侍る食口への心配は当然のことだが、その想いを敢えて超えて、最も神様から遠い人達にこそ光を宛がおうと意志を働かす私でなければならない。日本に対しては少なからず恨を抱えている韓国が、何処の国よりもいち早く応援に駆けつけてくれたことがどう言う意味を持っているのか、み言葉を知っている食口なら理解できるはずだ。日本にもっとも近いから早く来れた等と適当に言い捨てることはできない。最も近いけれども心情的にはもっとも遠い国のはずだ。元慰安婦と名乗るハルモニも出てきて哀悼の気持ちを捧げていたが、そこに政治的なものが加味されていたとしても、そのおばあさんの気持ちに偽りは無い筈だ。今回の天災に関わらず意識もされず光が届かないところが必ずあるし、その最も遠いところに光を充てることで、真の愛の光が日本を貫く風穴を開ける、その突破口となる。

2011年3月16日水曜日

今日の想い 278

家族を失った人々や、行方不明の家族を抱えた人々の心痛は計り知れないものがある。被災地でカメラに映る者の誰一人として、抱えきれない胸の痛みに余裕で対している者はいない。今を生きるだけでみんな必死だ。瓦礫を前にした彼らの悲痛な叫びや、震える手の甲を押さえつけて拭う涙。放心状態の親に寄り添って離れない子供たちのあどけない表情。肉親も家も何もかも、根こそぎ流された身ひとつであっても、向けられたマイクに気丈に答えている。もし同じ立場に立たされたとして、私は彼らのように振舞えるだろうか。私はこの人たちの誰ひとりにも頭が上がらない。そんな私が祝福家庭だと、恥ずかしくて口にもできない。今犠牲となったおびただしい魂の群れが、今年の春の足音を耳にする前に昇って行く。津波の後の、泥水が乾ききらない瓦礫の平原から、湿原の夜を舞う蛍火のように昇って行く。かつての広島や長崎が、空襲で焼け野原になった東京や地方都市が、平和な時代と信じていた現代の東北沿岸に再び広がる。画面の中でしか見なかった色あせた当時と同じ風景があちこちに広がっている。首都圏は今回の地震圏内に入ってはいたが、交通混乱や電力規制には悩まされても東北沿岸のあの被災に比べることはできない。魂の奥に刻まれる程の学習はしていないだろう。生命を捧げ、魂が打ち震える程の体験がなければ、この民族は目覚めることはないのだろうか。日本民族の精神はこれほどに地に落ち、皮膚で包まれた身体の中だけで自己愛に没頭し、萎縮しきってしまっているのか。何事も無かったかのように、全てを過去に葬り去ろうとするかのように首都圏の時は流れていく。そこに留まる空気に熱いものは感じられない。熱い血潮の流れは感じられない。冷めた無機質の栄養素以外彼らは必要とはしない。皆の冷たい思いが、冷たい雪となって被災地に降り積もる。

2011年3月15日火曜日

今日の想い 277

日本を形作ったその地は、実は龍の背であったことに気付く者達が何人かいる。眠っていた龍が目を覚まして、星の位置が変動するに合わせて身体をくねらせている。この龍は人を食べる。正しくは人々の想念を食べる。個人主義が蔓延し唯物的なものの考え方は、発散するのではなく執着して篭る。そのように流動性のない凝り固まった日本人の意識の在り様は霊的暗雲として日本列島を覆っている。この暗雲を取り払うべく消化しなければ、地球自身が生まれ変わろうとする邪魔になるからだ。だから日本は消化されなければならない。この日本が先ず、洗濯されなければならない。日本列島が位置するところは地球の四つの重要なコーナーポイントのひとつだからだ。地質学で言うなら三つ(四つ)のプレートが突き合った上にヤジロベエのように日本列島が乗っかっている。地球生成はアダムプレートがあって、エバプレートがアダムプレートから作り出され、その子供プレートという四つのプレートが正三角錐を作るように組み立てられており、この正三角錐が球体状態となって地球存在の在り様を呈している。現地球の実情は十四以上のプレートに分かれてはいるが、四つのプレートに集約されると思う。人間の身体が、様々な惑星の霊的存在が協力する形でそれぞれの器官系を有機的に連動させて存在しているように、地球体も、宇宙的アダムエバ子女がひとつとなって形を成す宇宙的家庭の形である。御父母様が向き合い手を繋がれる様に、地球に於いてはプレート間の繋がりが、ひとつになって球体存在になる為の重要な役割を果たしている。そこに関与しているのが大天使であり、龍として霊視される存在だ。この龍が関与してひとつになれもし、逆に戦いが繰り広げられもする。本来韓日トンネルが通ることで相互間の力の風通しが良くなって、この龍のエネルギーをひとつになる為に使うことが出来たのだが、日本が信仰を立てることが出来ずにこのエネルギーが身を滅ぼす力になっている。それが地震であり津波であり、原発の問題になっている。龍のうねりは近々東海に及ぶことも確定されている。日本が分割されるような状態まで来たことは悔やんでも悔やみきれないが、この期に及んでは打たれる時は素直に身を差し出して打たれるしかないだろう。それを甘受してのち、新しい未来が差し出される。

2011年3月14日月曜日

今日の想い 276

これで終わるはずがないとは、誰もが感じていることだろう。今回の地震災害、津波災害で犠牲者は数万に及び、更に原発問題の成り行きも心配されている。犠牲者はまさに犠牲的に死を供えたのであり、天災の儀式に身を持って参加し、霊界への昇華を受けられた人達だ。残った者達は彼らの想いの全てを受け止めて、彼らの願いを成就する使命を負っている。私は災難から免れたという気分で息をついている者達は、実は生きて死の道を歩むよう選ばれた者達だということだ。その認識なくして覚悟と決意が備わっていないなら、別の死の形を取らなければならないだろう。死には確実に二通りある。公的犠牲的に死の門を超える者と、生への執着に囚われたまま自己中心的に死の門を超える者とがある。前者が通る死の門は霊界への扉が向こう開きであって、安らぎの内に霊体を傷つけることなく天への門を魂の歓びと共に超えていく。しかし後者が通る死の門は、扉が逆向きに手前開きなっていて、それでも無理に通過しなければならないので霊体を傷つけるし、四肢をももぎ取られながらでも地獄への門を通過しなければならない。地上的表現を用いざるを得ないし、他に説明の仕様がないので私流の説明表現になるけれども、そう説明せざるを得ない。しかし公的犠牲的立場で死の門を通っても、地上に残された者達が彼らの想いを成し遂げないのであれば、犠牲の為の犠牲に貶められてしまって彼らの恨を余計に募らすことになりかねない。私達は重いものを背負っている。霊的中心にある祝福家庭は尚更だ。生きながらえることが人間の主題ではなく、本懐を遂げられるかどうかが問題であって、真の父母の中心軸を備えた祝福家庭は今こそその証しを立てる時だ。社会的環境、地上的環境、それらの環境用件として私を取り巻き翻弄する挑戦的霊を、本当の意味でなだめ善霊に変えることができるのは、真の愛を備えた祝福家庭しかいない。私が祝福家庭として真の愛に立つ為には、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになろうとする以外ない。しかしその決意と覚悟に必ず御父様は尋ねてこられ、私と共に居られるはずだ。その私を見て、周りの者達が何かを見、何かを感じる。彼らにない、しかし彼らに必要な何かを持っていることを知り私達に従わざるを得ないだろう。私達は御父様の訓練を通して、真の愛を満たす器を備えている。その器には数万人、数十万人に与えても尽きない真の愛が満たされている。人類は私達によって救いを得る。日本民族も私達に依らなければ救いを得ることはできない。逆に言うなら、私達は彼らを救う責任があり、使命がある。

2011年3月11日金曜日

今日の想い 275

霊界から流れてくる調べは、終わりを知らない調べとして、私の中に流れ注ぎ込まれていく。枯れていた私の魂は、水を得て生命を吹き返す草花のように精気を得て、流れてくる調べにリズムを加え力強く鼓動するようになる。真の愛の気の流れが調べに乗って届けば、気の流れは幾つもの支流となって渦を巻き、躊躇することなく全ての魂を席巻する。与えて与えて与えつくす愛の心情で席巻する。真の愛で触発された魂は目が覚めて、魂の故郷が真の愛の流れの源泉にあることを思い出し、懐かしさと愛の衝動で故郷を訪ねていく。源泉までの流れを遡れば私の父母に会える。真の父母に出会える。出会ったその場で神様が魂に触れるなら、あらゆる感情が涙となって噴出しながら、彷徨い続けた道のりの果てに出会えた奇跡をひとつになって歓喜する。神様は私の話を聞きながら私の想いに酔い、私は神様の想いに感化されて酔い知れる。酔って歌い、酔って踊る。霊界から流れてくる調べは、更に兄弟から兄弟へと伝わり流れていく。同じ人間ではあっても何の繋がりも見出せなかった隣人を、神様からの流れを汲む同じ親を持ち、同じ因縁を魂に備えた私の同胞であることに気付かせる。堕落以前のアダムとエバの強く結ばれた兄弟関係を、その調べは思い出させてくれる。隣にいてもいなかった存在を、初めて目が開いて懐かしい兄弟であることに気付かされる。そして手を差し伸べ親の元へ連れて行く。連れ戻った兄弟達が神様の元に集って、親なる神様の愛に酔いしれる。酔って共に歌い、酔って手を取り合って踊る。カインとアベルが、兄と弟、姉と妹が、親なる神様と共に宴を催す。沸き起こる笑い声に宇宙も胸襟を開き、宴に同参して場を盛り上げる。霊界からの調べはもはや絶えることは無い。ますます光を放ち、ますます力強く、大河となって滔々と流れる。

2011年3月10日木曜日

富める者 貧しき者

この年まで生きて来れたことを、若かった頃の悩んでいた私は奇跡だと言うだろう。誕生日を迎えることには何の感慨も沸かないが、歳の数だけ年数を生きてきたことは当たり前のことなのに不思議に思う。若かった私がこの歳まで生きてこれることを有り得ないと思うのなら、更にアメリカまで来て、家庭を持って、子供までいるとなると、そこまで自分を強く太くしたものは一体何なのかと思うはずだ。頭が爆発して粉々になるほど精神不安に襲われて、そのうちに私が私を維持できなくなると、そう思い込んでいた。その崩壊の日がいつやってくるのか、びくびくしながら暮らしていた。若い頃の私に取っては、こうして未だ生きていること自体が、十分に神様の存在を証ししている。み言葉の力を証ししている。しかしそこに留まっているなら、私は結果として自分の事が解決されればそれでOKという自己中心でしかないだろう。戴いた一タラントを更に幾らに増やせるかを私は問われているし、増やさない限りは時間の前進的流れに反することになる。内的霊的意味に於いて前進は増加法しかない。増加法は投入だ。逆に減少法は抱えようとすることであり時間を遡ろうとすることだ。内的に増加したものは時間差で外的に増加する。内的なものが原因で外的なものが結果であるなら、投入したものは必ず形を見る。精誠を投入すれば精誠に見合った形を見る。その信仰、信念に私がどれだけ貫かれているかだ。打たれて奪われ続ける気分に浸るのではなく、打たれたら復帰する。心情を復帰し更なる覚悟と決意を引き出す。私に消去法は通じないことを霊界に見せるなら貧乏神は退散し、増加法の神々が私を幾重にも取り巻いていく。今日の私が十年先の未来を見て奇跡だと言うだろうか。いや、為すべくして為され、神様が働くべくして働いたと言うだろう。富める者はますます富み、貧しき者は持っている物でさえ取り去られる。マタイ伝、13章12節の聖句が成就する。

2011年3月8日火曜日

今日の想い 274

そうだった。今日は息子の誕生日だった。私と二日違いの誕生日だし一昨日までは覚えていたのだが、昨日の熱の為に記憶がどっかに飛んでしまっていた。妻が息子に電話をかけて、おめでとうと口にしたのを耳にして、ああそうだったと思い出した。産まれた息子を見たとき、こんな綺麗な赤ちゃんを見たことが無かった、本当に可愛かったと電話の向こうの息子に話していて、それを聞く息子の慌て様が目に見えるようだ。ここに記す事は出来ないが、出産当時、問題をかかえていたり、また早産だったため黄疸で保育器に暫く入っていたりで、息子が産まれた感動は別の感情に打ち消された形になっていた。妻が息子に話しているのを耳にして、そう言えば確かにそうだったなあと今やっとその一瞬を思い出して確認している。私は息子の誕生を多くの悲観的感情を伴って思い出されるのだが、妻は誕生に伴う本来の喜びとして記憶に刻んでいる。私が悲観的に捉え易いのか、それとも母としての本能が希望的感情を持たせるのか、どちらでもいいが私は妻の素直な喜びの感情に負けた。病弱な彼女だけれど、その一瞬母の強さを見た思いがした。私の全ての悲観的記憶は、私でしか生まれ変えさせることは出来ない。その記憶に刻まれた体験があればこそ、私の中で培われた別の魂の芽が芽生えたのだと消化できれば、その記憶を感謝の記憶として生まれ変えさせることができる。私の心の開かずの間にしまい込んだ、傷口をえぐり返す記憶をも取り出して、向き合って見る気持ちになった。今日は息子の誕生日。生意気な言動に手を上げてしまった高校生だった息子の誕生日。追い詰めてしまって涙を流させた中学生だった息子の誕生日。親の叱咤で泣きじゃくる妹を慰めた小学生だった息子の誕生日。高熱で入院してしまい、ベッドの横で心配している親を逆に元気付けてくれた二歳だった息子の誕生日。そして、元気な泣き声で、初めて父親になったことを知らせてくれた息子の誕生日。

2011年3月7日月曜日

今日の想い 273

明け方前から一日中、一時も休まず雨が降り続いていた。この長雨のせいなのか、昨夜から熱が上がり風邪の症状が一日中続いた。だるい身体を薬で誤魔化して、朝の条件だけは何とか済ましたが、一日のあとの残りは節々をただ摩りながら終ってしまった。頭も回らず身体も引き摺るような状態が続いて、雨が一段落した頃にやっと人心地が着いたようだ。発熱は身体が菌に対して抵抗している状態だが、熱があるとどうしても嫌気感に悩まされる。でもこの嫌気感が無かったら身体を気遣うことは恐らく無くなるのだろう。身体が弱いと言うことは身体が労わりを要求し、愛されることを望んでいるということだ。体があっての地上生活だ。地上生活を送る為には肉体が欠かせない。現代人は肉体の中に深く浸透しているから、肉体自体を私だと誤解しているが、両者の違いを認識することが宇宙の真理を把握する第一歩だ。それは宗教的な感覚を備えると言ってもいい。神様に繋がる自我があって、心と体が一体となることで私という存在が個性完成する。神様の第一祝福が個性完成だが、堕落人間の心と体は戦い続けていてその一体化は至難の業だ。更にそれが神様の祝福だと言っている。しかし祝福だと納得できる感覚を放蕩の果てでぼろぼろにならないと堕落人間はなかなか理解できない。普通の生活感情で為に生きることや、犠牲精神は苦痛以外の何ものでもないと捉えている。それは体から受け取る感覚にのみ生きることを望んでいるからであって、感覚を超えて霊的なものを信じていないし指向してもいないからだ。霊的なものを信じ、指向しないかぎり個性完成の祝福は入り口にも届いてはいない。愛であるとか、理想であるとかという言葉は、地上感覚を超えた霊的なことを言っているのであって、霊的に捉えないで感覚にのみ生きる者が使う言葉ではない。まだ熱が完全には引かない。明日はどうだろうか。少しは楽になっているだろうか。今朝方、条件をどうしようか躊躇もしたけれど、済ませたら済ませたで達成感はあった。誰に話すにも恥かしい小さな小さな心の満足だが、それでも少しずつ少しずつ背伸びする自分を積み重ねていけば、神様が直接私を尋ねてくださる時があり、心のままに体が従う一体化が、或る時為せる。一体化した自分を私は将来見ることになる、という自分理想を見失わずに、今日一日を生きるにも忘れてはいなかっただろうか。

2011年3月6日日曜日

今日の想い 272

民主主義と共産主義を秤にかけて、民主主義が善で共産主義が悪だと割り切ることはできない。しかし民主主義がアベルで共産主義がカインだというのは、御父様があらゆる機会ではっきりと告げておられる。カインがアベルを押さえつけて従えと言うのは神様の願いではないが、かと言ってアベルがカインを糾弾するのも願いではない。カインとアベルは一つになることが願いだ。カインに着き従うのであれば、アベルに従う何倍もの信仰が要求されるだろうし、カインが神様の元に帰りアベルと一つになることを為せないのであれば、許しも祝福も必要ありませんと断言し一筆残して従うべきだろう。下手に自分の秤で善悪を判断したり、ましてやこっちに着いていれば取り敢えずの生活も護られ得だろうと言うような、そんな表面的なことに行動を委ねるなら、今までの御父様に対する信仰は何だったのかと、自分の存在を否定するときが必ず来る。私はそこまでの内的熟慮が為されて取っている行動だとはとても思えない。人は未来を計ろうとする。未来を計って都合のいい、楽な道、得な道を選択する。しかし御父様の願われる道は、未来を計り予測し、選択する在り様を一切受け入れない。それは横的なものを中心として時間軸を置こうとすることであり、しかし時間軸は本来、縦的なものであるからだ。近い未来が見通せなくても、それでも縦的な御父様と私という軸を最優先すべきであり重要視すべきである。それでこそ横軸が定まり、私は横的展開を見ることができるし、生活という地上基盤もその後に備えられるであろう。この摂理の最後の時間の流れは、急流を駆け下っているようなものだ。今日見通した明日が全く変わってくる。今日の精誠の歩みが明日には思わぬ形で実を結ぶ。或いは今日の不信仰が明日の大きな災いになる。だから平面的予測など全く意味が無い。それでも人それぞれ時間の流れの度合いは違っているかもしれない。しかし全ての人類の時間の度合いが全て合わせられて、ナイアガラの滝を皆が下る時がある。

2011年3月5日土曜日

今日の想い 271

用事を終えて、夕方近くにWASHIGTON DCまで南下していく為、95号線からNEW JERSEY のTURNPIKEに入っていく。WASHINGTON BRIDGEからNEWARK 空港まで湿地帯が広がっていて、かなり見通しがいい。この辺りで日没に差し掛かると心に染み入る風景に出くわす。なるべくそれに合わせて帰るようにしていて、何度出会ってもその度に深い感動を覚える。地平線に沈む大きな夕陽が右の窓から日没の赤色を投げかけ、運転席側の窓越しにはハドソン川を挟んで立ち並ぶ摩天楼の建物が日没の赤色を反射させている。貼られたガラスが建物によって異なるのか、反射の仕方も反射の色も微妙に異なっていて、しかし異なるそれらが集まることで統一的な美しさを見せる。殆ど直線道路ではあるけれど、車線を確認しながら見るという、見惚れてしまう衝動を抑えなければならない歯痒さを味わう。中にはストレートに光だけを反射する高層ビルもあって、赤色を白色の鋭い光に反射させながら、自己主張しながら夕陽に対抗する意志を見せるものもある。しかし地上のそれとは次元を越えて、晴れ渡り冴渡った空は、西の赤色から東の青色まで、紫の加減を見事に織り合わせながら神界の幾重もの位階を顕している。垣根の無い浸透しあったそれぞれの位階の神的存在を大空に見ている。そんな見方が正しいかどうかは別にしても、私の中から宗教的気分と感情が形状の枷を越えて溢れ出して来ることは否定できない。ハンドルを握って運転している自分が別ものの様に、神的存在が舞い踊る大空へ私は飛翔していく。深い眠りの中から安らぎと生きる力を携えて目覚めるような、そんな内的霊的力を神々から注ぎ込まれるのをこの大空を舞いながら実感している。私は愛されている。この世的愛とは次元の異なる愛で愛されている。宇宙の愛を受け取れる感性を取り戻すことができれば、私は受け取った愛を更に世界に、人類に伝播していくことができる。私は人類が未だ経験したことがない、嗅いだことも触れたことも無い、新しい愛を、真の愛を探求している。御父様と完全一体となって、御父様の骨髄に入っていくことが出来れば、真の愛の真っ只中にいる私を自覚し、真の愛に包まれ抱かれて、その腕の中こそ私の本郷の地だと、その安らぎの中で深く頷くだろう。ちょうどあの沈む太陽の只中に飛翔して吸い込まれて、溶け込んで同化した私が太陽となって照らしていくように。

2011年3月4日金曜日

今日の想い 270

想いが注入され、魂が混入されてこそ、全ての存在は霊的に活きる。想いの強さが、魂の大きさが、その存在様相の品格を決める。存在を活きた存在たらしめている、その霊的内容を推し量ることができる私達になっているだろうか。霊的内容を推し量るためには、私自身が霊的高みに上らない限り把握し主管することはできない。私自身の霊を高めるためには私の根源が何処から来たものなのかが問われ、真の父母である根源と強く太く結ばれた私となれれば世界は思いのままだ。私達は地上世界に於いて、自分の周囲にありとあらゆる存在様相を備えた環境圏を見回している。それらを把握し主管しなければ、向こうから何かを差し出そうとはせず逆に主管されてしまうだろう。私が真の父母に繋がる本物であれば、愛の価値を知り愛で主管することを知り、愛で主管された存在は私に美を返してくる。家計に困窮する祝福家庭が多いとするなら、清貧をもって御父様に仕えるべきだと思っているのか、それとも正しく存在を愛で主管しようとしてはいないと言えるのかも知れない。別の言い方をするなら、対象が美を返し利益を差し出すほどに愛していないとも言えるし、自分の意識や思考が現状を掘り下げて原因を見出すほどに投入されていないとも言える。単純に世界規模の企業や、財を為した人々を見て、その他の人々と何が違うのかを考えてみるといい。売り上げを増やし利益を上げているそこばかりが注目されるけれど、事実それに見合うほどの投資をしている訳で、それは存在に対する与える愛でもある。まだ形にならぬイメージ存在へ想いの熱をとことん注ぎ込みながら形に仕上げていく。その過程で普通利益の事など考えない。子供を生み育てるのと何ら変わらない。しかし我々が見上げるほどの利益を上げ財を築いていても、それでもそこに真の愛と言えるものは未だ投入されてはいない。祝福家庭が正しく真の父母に繋がり、対する存在が真の愛で主管され、イメージが真の愛で生み育てられるなら、想像もできない爆発的な人類利益を生み出すだろう。未だ私達に真の愛の概念も、真の愛による観念も定まってはいない。しかしそれが確立してくるに従って前人未到の宝の山を掘り当てることになる。真の愛を所有することが、存在がその本宮を開いて真の価値を差し出す鍵を握ることになる。

2011年3月2日水曜日

今日の想い 269

御父様の真ん前に座ってみ言葉を受けながら、その意味を受け取れない歯痒さと言ったらない。御父様がどうして日本語を話さないといけないのか。君達が韓国語を理解するべきだろう。そうおっしゃったけれども正しくその通りだ。一生懸命勉強して来たけれども、それでも御父様のみ言葉を聞き取れるまでには至っていない。日常の言葉もままならないのにどうしようもない。周りも理解出来ない者達ばかりだからと思うのは完全に間違っているだろう。周りを見渡して安堵しようとする日本的習性の私こそが恩讐だ。今回の情けなさをしっかりと胸に刻んで、これからますます韓国語習得に拍車をかけていこうと思った。今の勉強の仕方ではどうしても限界がある。アメリカに渡って英語環境にどっぷり浸かることで、日常英語が何とかものにできたように、韓国語の環境に浸かることが先ず必要だろう。教習本をめくる程度では生きているうちに追いつくことは万が一にもないということだ。同じ言葉を使わない御父様と日本食口の間には深い心情の溝がある。この私が歯痒い想いをしているのであれば、御父様はもっと歯痒いに違いない。慣れない日本語を使われて、しかしそれでも自分の想いが目と鼻の先にいる者達に届かない。その苛立ちが言葉の端々に出て、表情にも出ているのはわかる。それでも何も出来ない。何もして差し上げられない。通訳を通さないと遣り取りできない、そんな親子関係がまともであろうはずがない。親と同じ言語をものにしてこそ親子関係の基盤となる。言葉に乗せて心情の遣り取りができる。真の愛がフィルター無しに、直接魂のど真ん中に届けられる。

2011年3月1日火曜日

今日の想い 268

心と体の一体化、アベルカインの一体化。ひとつになりなさいと語られる御父様の一体化の概念と、私達が理解している一体化の概念が本当に同じだと言えるだろうか。そこに大きな開きがあって、ひとつになると言う事が曖昧に適当に取り扱われ、一体化されていないにも関わらずひとつになった気分だけで御父様の願いと角度を同じにすることが出来ずに、時間が経てば経つほどにズレが生じ目立って来ていると思った。御父様の激しいマルスムは、表面的には居並ぶ者達への蔑みの言葉や憤りの言葉に溢れ、御父様を知らない者達が見るなら何処の組の会合かと思えるほどに殺気立っている。その暴風雨圏内のど真ん中に身を埋めながら、一体化とは、そして御父様の願いとひとつになるとは、文字通りの決死の覚悟と決意を備えることは当然であって、決してひとつになった気分で盛り上がることではないと言うことが分かった。ひとつになっていると言うなら、ひとつになった証を実体で表明しようとし、実体で表したいと切に願い出て行動に出ることだ。御父様の采配を待って事に従おうとする以前に、当事者であるならどうすべきかは私が決めるべきことであり、御父様に尋ねることで委ねていると言いながら実のところ逃げているとしか言いようがない。御父様に持っていって御伺いを立てたにも関わらず、御父様が怒り心頭に発せられて下された支持命令に今度はうろたえている。これで皆の目が覚めるのであればそれでもいいが、心血を注いで育ててきた群れや、信頼を於いて疑わなかった責任者達の余りにも不甲斐ない姿を御覧になって意気消沈されたことだろう。それでも最後には私達に信頼を置いていることをその視線に、その表情に表され、期待もされて良い報告を待っているとはっきりと私達に伝えられた。明らかに私達は伸るか反るかの瀬戸際に立たされている。ここで信仰を立てて御父様の息子娘であることを証せずに、どの機会を待って信仰を立てようと思うのだろうか。最悪の状況は最高のチャンスでもある。居並ぶサタンが姿を現せば、天運という天運全てを携えて居並ぶ善神も待ち構えている。

今日の想い 267

涙が止め処も無く流れてくる。別に泣きたいわけではないけれども、私の身体を通して涙する多くの霊達が私と共にいる。御父様のお隣で硬い表情をしておられる御母様を目に写し、今御母様が置かれている状況がどれほど犠牲と十字架の歩みであろうかと思った途端、涙が止め処も無く流れ始めて止まらなくなった。恥かしくて御父様からの視線を遮るように前の人の頭の陰に隠れて遣り過ごそうとしたけれど、どうしようもなかった。ハンカチもティッシュも持ち合わせていなかったことを悔いた。それでも、席を外されいた御母様を最後に呼ばれて、御母様は促されて話を始められ、暫く見たことが無かった御母様の笑顔を見ることができて本当に良かった。私が最初に御父母様に御挨拶したときも、御父様は私を無視しておられたけれど、御母様は取り成すように笑顔で御父様に声をかけておられた。勿論否定された私は地獄の底に突き落とされたけれども、それでも御母様の笑顔は、特に私に向けられたものではなかったとしても、地獄の底から救われ赦される気分を引き起こしていただいた。次の機会に呼ばれた時も御食事をあまり喜んでいただけず、それでも挨拶するように促されて前に出て挨拶させていただいたのだが、言葉の中に御詫びも入れて御挨拶したとき、御父様は厳しい顔をしておられたけれど、御母様は笑顔で頷いて下さった。私に取って御母様の笑顔は、厳しい御父様と私の間を取り成していただく魔法の架け橋だ。御父様の想いが私に届けられ、私の拙い想いを御父様に届けていただく、虹色に輝く魔法の架け橋だ。どれ程厳しく問い詰められ、重い決意を迫られていたとしても、御母様の笑顔は柔らかく、温かく、清々しく、そして仄かに甘く、ぎすぎすしたこの魂を包んでくれて軽くしてくださる。御母様の笑顔を、この厳しい訓読会ではあったが最後の最後に受け取ることが出来て、嬉しくて有難くて涙が流れた。心配で涙を流し、今度は安堵して嬉しくてまた涙を流している。そんなとき、私は御父母様の息子だと実感できる。

今日の想い 266

仏教にカルマという概念がある。因果応報として捉え、世代から世代へ渡る善因善果、悪因悪果が基本であって今の私の人生は私の過去生の結果として生きているということだ。しかしこの捉え方には、今生を既に定められたものとして変えようが無いという気分の上に成り立っているように思える。しかし本来のカルマとはその気分とは少し異なっている。私が思うに、カルマとは内的な原因が外的な結果として現れるということであり、更にその外的な結果に身を置くことで新たな内的要因を育てていく。今の今は過去の結果に生きていると同時に、未来の種まきをしている。即ち私達は常に創造の過程を生きているということが言える。今の私の在り様、私の生活に身を置くことで安住するのでなく、新たな創造の為の内的谷間に降りて行きながら、まだ見ぬ次元への内的要因を探し求めそれを育てていくと説明すれば少しはわかってもらえるだろうか。私が神様への道を進んでいることの証明は、私が悩み苦悶し、内的谷間の位置に下って消化しようと試みているかどうかだろう。悩み苦悶する位置を誰も喜んで迎えようとは思わない。しかしその位置に飛び込む決意と覚悟を備え、その混沌とした霊的不安から不安感情だけに意識の光を届けるのでなく、見えぬ不安で視線を落す内的在り様から希望因子が押し寄せてくるのを掴もうとする、視線をあらゆる方向に宛がえ希望因子を探そうとする私になるべきだ。それでこそ創造的人生活動であり、私のこの生き様は神様の創造歴史、創造活動とリンクしながら神様の創造の力を得るはずだ。私達が良く口にするところの、天運を戴くことがそれでこそできる。こんな話をするには勿論それなりの理由がある。実は訓読会に参加した。参加した者達は御父様から大きな難問を戴いた。怒髪天を突く御父様を間近にしながら、御父様から直接踏み絵を迫られ、決意と覚悟を迫られた。頭を抱えて小さくなって私自身が消え去ればいいのにと思える状況で、しかしその内的谷間の混沌の中で視線を上げて見ようとすれば必ず何らかの希望因子が飛び込んでくるはずだ。その期待感を内面に留めて見失うべきではない。取り敢えずは御父様の指示に先ず従うことだろう。その前に何らの思いも思考も感情も働かすべきではない。はてと考えれば考えるほどにサタンは浸入してくる。有無を言わさず先ず飛び込むべきだ。