2011年7月16日土曜日

今日の想い 339

どれほど生にしがみ付き、生への執着を石となるほどに頑なにするとしても、死は万民に訪れて死から逃れられる人間は一人もいない。逃れられないにも係わらず更に執着を強くする。執着心から心を頑なにしてしまうと、もはや他の何物も受け入れようとはしなくなる。魂がその執着で完全にロックされてしまうからだ。この世の生だけが、そして生きながらえることのみが私を存在させていると信じて疑わない。存在の在り様はこの地上の生とは異なるが、この肉体が滅んでも私と言う存在は存在し続けるという感覚を失くしている。生への執着という魂の病的な状態は、生きることの目的観念を備えていてその為に生きたいと思うのとは異なっている。私の心の在り様をよく観察すると、生活のあらゆる側面で執着病が伺える。生きることに向き合うとき、生への執着でロックオンされて正しく生に向き合うことが出来ないでいる。その状態から解き放つ為には、生活の側面で症状として現れる執着病のひとつひとつを丹念に言い聞かせ宥めながら、ロックされた魂を開放していくプロセスが大切だ。外的な結実がひとつひとつの行動の積み重ねであるように、内的な結実もそうであって、ある時急に人が変わったように内的状態が変わるわけではない。しかし確実に見えない一滴一滴が溜まってきて、コップから溢れ出す瞬間を見届けるようになる。遠い過去の或る時点で自分にも気付かないように蓋をして、無意識の領域に押さえ込んだ堕落の病の性品が、魂の底の方で悪臭を放っている。私の心の動きを注意深く観察しながら、腐りきったその堕落の性品を取り出して洗い流す。それが決して優しい作業ではないが、痛みを伴う魂の作業を積み重ねることで、魂の病は癒されていく。堕落の性品は取り除かれていく。傷口をえぐられたくない思いを乗り越えて霊的手術を自らに施しながら、執着していた堕落的性品を癒していくことで、固い上薬(うわぐすり)のように魂の表面にコーティングされていた病的な生への執着という縛りを解き放ち、生きることの本来の目的観念が魂の内に蘇生してくる。それこそが祝福を戴いて御父様から神霊を自我に受け取り、神霊を基とした自我による再生された生命体を創っていく。

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