2011年7月20日水曜日

今日の想い 343

差ほどの温度はなくても湿度が異常に高かった一夜を超えると、外気は冷めて結晶し、朝靄(あさもや)となって柔らかな朝日の帯になびいている。掻き回されて沸き立っていた外気が整理されて落ち着いてくると、それとは対照的で、落ち着きを見せない私の内面が際立ち目立ってくる。言いたい放題でひと時として口を噤むことのない内面の声は、良心をその口を押さえたまま魂の底の闇のなかに追い遣ってしまっている。今日という一日もいきり立つ何千何万と言う声に翻弄されながら、無闇に一日を後に追い遣るしかないのだろうか。つくづく嫌気が差してきて昇る朝日が恨めしくなる。この声のひとつひとつを宥めて言い聞かせなければ、私は一ミリだに前進できない。神様は時を動かし前へ前へと進めておられるのに、私の内面の時は足踏みをしたまま前進することが出来ないでいる。御父様の背中は振り向かれることも待たれることもなく、ますます歩調を速め遠ざかっていかれるようだ。私の或る声は東に行けと言い或る声は西に行けと言う。或る声は立ち止まれと言い、また或る声は引き返せと言う。私は立ち往生したままで泣きそうになる。躊躇したまま先生に声もかけられず、お漏らししてしまった園児の私がそこにいる。当時の私は既に気付いていた。このままなら何度も何度もお漏らしし続けることを知っていた。そしてこの状況を打破する為には顔を上げるべきだと、顔を上げたら視線を伝えるべき先生に持っていくことだと、そうして兎に角口を開くことだと、何でもいいから声を発することだとわかっていた。当時の私が既に教えられて知っていたように、今の私が先ず何をすべきかは知っている。私が願う私の在るべき姿を、それは無理だと言う悲観的気分で覆ってしまっているから、いつまで経っても足踏みしたままでいる。私は既に不信の気分だけで私の内面に対している。不信の要素で、否定的気分で私の内面は満たされていて身動きできないままだ。戦いは外にあるのではなく私の内面にある。信と不信が、否定と肯定が戦っている。祝福を戴いて神様に根ざすものと、堕落からくるサタンに根ざすものとが戦っている。私は戦いに勝利して、外界のこの煌く朝日を内面に届ける私になる。過去の日々がどれほど敗退の連続であっても、勝利の旗を掲げる戦いの場として、今日という場を用意されている。信仰者に取って生きる一日一日は、今日には今日の戦略があり、何処の前線を広げ何処を突破していくのかという内的戦略に余念がない。その認識があって意識があれば、御父様の存在と戦勝記録のみ言葉は、現実性と必要性を大きく帯びて今日の私に関わってくる。

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