2011年7月8日金曜日

今日の想い 336

復帰歴史を見れば、この世の善悪観では計れない事柄が神の摂理として為されてきたことはその通りだ。さらに現在から過去を見て、私達が原理的解釈で納得できるものではあっても、その時代の当事者が同じ原理的論理の視点に立っている訳ではないし、中心者、当事者の意志に働きかけて、霊的に彼らは押し出された形で摂理は進められてきた。御父様ははっきりとイエス様の父親は洗礼ヨハネと同じ父親であるザカリヤだと断定されておられるが、マリアの行為をエリザベツが知ったとして納得したとは思わないし、現代であっても勿論そうだが当時であっても道義に反する行いには違いない。しかし事実救世主は道義に反した行為を通して出生されている。では現在すすめられている摂理や御父様の指示事項、或いは様々な問題に対して私の判断が正しいものであると言えるだろうか。私の判断は、私が思う道義に照らしてみたり私の論理を展開してみたりということだろうけれど、いくら原理的とは言え思考するのは私であって、その私自身が罪をもち堕落性があり不完全な矛盾した存在だという観点に立つなら、私が思うことも不完全な矛盾したものであることは否定できない。個人的なことにしろ全体的なことにしろ、私の前には常に解決すべき課題が対峙している。それを解決して次なる展開へと開拓していくのが或る時は蕩減であり或る時は創造だ。問題は私達が霊的に曇らされて目の前の課題がはっきり見えないことにある。感情や思考には堕落的なものが侵入しており、その私の感情や思考が課題の本質を見る目を邪魔していることにある。とりわけ教会内部の問題と言われる事柄に関して、私達は様々な情報を妖邪な形で取り入れていて、更に不完全で矛盾した私が判断しようとしている。課題の霊的本質が見届けられない限り、私は問うことはあっても判断すべきでない。更にその本質の知れない課題に、敢えて飛び込み介入しようとするなら、発動させた意志に対する責任を負わざるを得ないだろう。本当は、関心が行き、より刺激的に思える甚振り(いたぶり)ものを得たと喜ぶ堕落的な私がいて跳び付こうとしているし、御父様が指示事項として出されていて、私が課題として本来対さなければならない嫌気の指す面白みのない事柄からは逃げ出そうとしているに過ぎないだけのことだ。私の動機を白日に晒して悔い改め、御父様の心情を尋ねることに目を向けさせ、その願いに応えようとする私を復帰させることだ。神霊を戴いた食口であるなら、揺るがない御父様に学んで翻弄されるべきではない。イエス様の誕生に於いて道義に反する行為が伺えるのに、再臨のメシアであられ、真のアダムの種を所有される御父様に於いて、何も無かったと言い切れるだろうか。理解できない形で摂理が展開されたように、御父様の勝利的な内容も理解できない秘儀的な事柄に満ちているはずだ。どんなことがあっても、御父様の道義的責任の追求に発展しかねない火種を煽る私達であっては絶対にならない。

0 件のコメント: