2011年7月11日月曜日

今日の想い 337

新約的な愛の言葉は、慰労や慈愛に満ちた受け取る愛としての愛の言葉であるのに対して、御父様が語られるみ言葉は、与える愛として差し出す私の意志を刺激するもので満たされている。意志を差し出し、行動を伴わないみ言葉理解なら、本当のみ言葉の力を私に植え付け育てることはできないだろう。愛されているという言葉を何千回、何万回告げられたとしても、真の愛は伝わってはこない。愛するという意志を伴うみ言葉受肉であってこそ、即ち実践してこそ、み言葉はみ言葉としての本来の力を発揮し、与えるからこその真の愛に違いない。しかし等閑な(なおざりな)行動を実践とは言わない。その行動が愛するという意志に満たされているのでなければ実践とは言わない。私自身の信仰告白として、等閑な、輪郭だけの行動に終始してきた期間があまりにも長すぎた。そして未だに形だけにとらわれる歩みから完全に脱却している訳ではない。私の中に、未だに愛するという概念が備わってそれが全ての行動動機となってはいない。生活の全ての行為が、私の一挙手一投足が、全ての表情やひとつひとつの視線までも、更に一呼吸一呼吸に至るまで、愛するという意志に貫かれたものであるべきなのにそうなってはいない。そうなっていないのに意味もなく落ち着き払い、今の私に安住しようとしている、悲しいかなその意識もされない堕落的意志が私の意志の在り様だ。敢えて意識もされないそれが私の中心的気分であり、それは堕落的気分だ。新約の聖徒たちと霊的イエス様の間には聖霊が関与している。聖霊を介してイエス様の愛を受け取り信仰の美を差し出す。クリスチャンに取って聖霊の働きは或る時は風のようであり、或る時は水のようだ。そして又或る時は火のようにも働きかけてくる。地上生で空気や水や熱の中に埋もれて生きるように、楽園というイエス様の霊界で、聖霊という霊的空気や霊的水や霊的熱の中に埋もれて内的生を生きているのがクリスチャン達だ。イエス様を慕う彼らはそう言った聖霊の要素に満たされている。本来なら聖霊に満たされている彼らこそ、御父様から愛する意志としての魂を注ぎこまれ、聖霊を受け取って聖霊体験する受身の位置から、真の愛として能動的に愛する位置に立つべく用意されていた。御父様が私達に対するとき、耳に優しい言葉はないし、溜息の出るような指示事項に溢れている。み旨の為に苦労している兄弟に対して、慰労の言葉をかけられる以上に更なる苦労を要求されるのが御父様だ。慰められて、愛される私達になるのではなく、より愛することができる、より犠牲になることが出来る私達になることを願われ、要求してこられた。苦労が当たり前となり、犠牲になることが当然となって、真の愛の実体であられる御父様に近付くことができる。受け取るのではなく、自らが放つことができる真の愛の実体への道を歩んでいる。新約の聖徒クリスチャンが、受け取った光を反射する月の存在なら、成約の聖徒は自らが光を放つ太陽存在だ。光を常に放つ私となり、私が風を起こして恵みや慰めを与え、水の流れを起こして生命を与え、熱を起こして天の心情を相手が受け取れれば、私は御父様と同じ位置に立てる。

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