2011年7月21日木曜日

今日の想い 344

押し並べて、愛に対する理解が足りないか愛を何か特別の、食口だけが関わるもののように思っている。愛という言葉を始めて耳にしたような者達が集まって、原理に出てくる聖書の引用部分だけを扱いながら、如何にも聖書を知り、イエス様が示された愛を知り、クリスチャン達が積み上げてきた愛に対する概念を知っているかのような幻想を抱いたまま、み旨だと拳を上げてこの世に対するから誤解が生じる。摂理が延長され御父母様や御家庭に皺寄せが行ったことに対して、祝福家庭の問題だと口にはするけれど、私の愛が足りなかった、理解が足りなかったと本当に思っている食口は少ないだろう。本来クリスチャン達が再臨主を受け入れて摂理を担当すべきで、それが失敗して私達が担当することになったという意味が、摂理の全体としては説明できても具体的な私の内容に対しては無頓着だ。全体として指摘されても個人個人の問題として指摘されることは無かったけれど、明らかに私が問題だったと思わなければならない。御父様も或る程度認識された事ではあるだろうけれど、キリスト教としての名声や培ってきた外的基盤もさることながら、み旨を担当する一人一人の内容がクリスチャンの内容と差がありすぎる。要するに愛がわかっていないと言うことだ。日本的な優しさだとか親切だとか気遣いだとかというのも大まかに見れば愛には違いないけれど、イエス様が示されキリスト教やクリスチャンの中で築かれ培われてきた愛は本質に根差している。霊的であると言ってもいい。恐らく私達、特に日本食口はその点に関して内容が無いから、御父様は日本の忠孝の精神をサタンと戦う武器にされたのだと思う。40年期間を超えられて出発点に戻られてからは、私達の内容に対する願いも次元を上げられている。クリスチャンを超えて余りある愛の内容を願われている。御父様のみ言葉の理解を、真の愛の理解を為そうと思えば、イエス様が示されクリスチャンの中で育まれた愛を、その濃縮されたものだけでも学んで受け取れなければ、正しく畑を用意して真の愛として花咲かせることはできないだろう。イエス様が示されクリスチャンの中で育まれた愛を知れば知るほど、彼らに対して頭を下げてでも請わなければならないものがあると感じるはずだ。彼らに対して、私達の内容に誇れるものは無い。謙虚に学ぶ姿勢だけでも取り戻さなければ、御父様だみ言葉だとトラの衣を借りても、如何せん自分の内容の無さに愕然として立ち上がれなくなるかも知れない。

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