2011年7月3日日曜日

今日の想い 333

息子とふたりで一時帰国し、息子とふたりでニューヨークに行って新生活の準備を手助けしながら、息子が物心ついてからこの方、これほどに行動を共にしたことは無かったように思えたし、けれどもこれから離れるとなると、もうこれほどに同じ時間を過ごすことも無いのかも知れないと思うと、準備する手も止まってしまった。私自身、私を育てるために苦労を惜しまなかった親への想いは人一倍あったものの、説得も出来ずに無理矢理飛び出して行く息子をどうすることも出来なかった自分の親と同じように、今私はその親の立場に立たされている。立場は同じであったとしても、当時の親の気持ちそのままを味わいながらも私はその想いを諦めと恨みに貶めるのではなく、希望と喜びに変えて昇華させる使命がある。私のこの内的消化をもって自分の親が報われ救われる。正直息子は教会のことに対しては嫌気気分の方が先で、信仰的に立っているとはとても思えないので、心配な事柄を拾い始めれば際限がないけれども、事情がどうあれ一切の悲観事項を否定して希望と喜びだけで満たして息子を出発させることだと思った。怒鳴りつけもし手も出したけれども、無理矢理にでも心の扉をこじ開けて訴えたいとする衝動も、愛が深ければこそのことだと理解してくれているだろうか。何事に付けても深入りせず、クールでドライに収めようとする妻と同じような性格で、土足で心の奥の方まで入り込もうとする私をいつも避けていた。息子のために眠れない日々を過ごし、陰で息子のために何度も涙を流し、親として心安らかな時など無かったが、そうやって親としての無力な自分を突き付けられれば突き付けられるほど、子供に対する思い入れは強くなっていく。もはや自分がどうなろうが、火に焼かれようが切り刻まれようが、子供が活きるのであればそうなることが本望だとさえ思える。こうなると親バカも病気のようなものだけれども、個人主義から見れば愛とは為に生きざるを得ない心の病として写るのだろう。でも誰もが愛の病に罹れば、それはもはや病とは言えなくなる。神様が持っておられる真の愛の菌に感染することは、堕落社会にすれば病であったものが、本然の世界では愛の菌に罹ることが必要不可欠の状態に違いない。息子には、真の愛の菌を僅かでも植え付けることが出来ただろうか。生ぬるい血流に真の愛の菌で感染させて、沸々と湧き出すような熱い想いとなって流れ出すだろうか。

0 件のコメント: