2011年7月18日月曜日
今日の想い 341
現代人にとって思考を働かすことで神の存在の是非を問い、存在の本質や人生の疑問への解決を見出そうとするけれども、思考はあくまで私の概念を基としている。その意味では思考は限定的であり私を超えて思考することはできない。私を超えて、即ち私の理解を超えるものに触れ、受け取ろうとするときに私はどうすべきなのか。思考を超えて高みとコンタクトを取ろうとするとき、私は祈るべきだと言う結論に至る。私の心を無にし、更に全開して天の御父様と尋ねるとき、夜も昼もなく応えようと構えておられる神様から直接想いを受け取ることが出来る。しかしその祈りこそが本当に難しい。祈りに似せた風の行為なら誰でも出来るしいつでも出来るが、私が完全なマイナスの位置で、真摯に神様へ向き合うことができたことはただの一度も無い。ただの一度も無いけれど、本当に祈ることができて神様と一問一答すると言える基準を私の本心は知っているし、その基準から遥かに遠い私であることを知っている。真の神の日のような公的な場で、祈られる御父様に私達は何度も接している。その時の御父様の姿勢や表情、口にされる祈りの内容や言葉遣い、さらに込められた心情や漂う雰囲気など、言葉では説明できないけれど圧倒されるものを食口であれば誰でも感じずにはおれないだろう。御父様の祈りこそが本当の祈りであり、私達が祈るときの基準であり、御父様の祈りにより近付くことが神様と一問一答できる私になれる道のりだ。全ての行動は深い思考に根ざしたものであるべきだけれど、どれほど熟慮するとしても思考の前に先ず祈りがあるべきだ。私の祈りが拙いものであったとしても神様が働くことが出来るのは祈りを通してだ。拙い祈りであったとしても、祈りは祈りとして必ず聞き届けられる。もしそれがこうして欲しいああして欲しいと言う、人から見ればつまらない願いであったとしても、親としての神様の反応が必ずあるという信頼を寄せた祈りであれば必ずそれに応えて下さる。祈って心を天に開けば、思考は私の思考としてではなく、私を通して天が思考しているのを私は実感するだろう。人間は万物以下に堕落したけれど、堕落人間であったとしても人間は祈ることが出来る。祈りを通して神様に向き合おう近付こうとしてこそ、神様に対して私は人間なのだ。祈らない私は万物か、それ以下だと言ってもいい。それほどに祈りは大切だ。
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