2011年7月6日水曜日

釣りに出掛ける (2)

日本の海域では見ない魚だが、どちらかと言うとイシモチに似ている。こちらではスポットという名で十五センチから二十センチ程度の魚だ。汽水域から広く湾全体で取れるらしい。三十年近く前、初めてアメリカのワシントンに来て先ず魚の小売店舗で働くことになったが、そこは八割方黒人の客で、魚好きの黒人が安くて美味しいとよく買い求めて行ったのがこの魚だった。魚が釣れるポイントに船は固まって集まる。探知機は持ち合わせていないので船が集まっている所でアンカーを下ろし、釣り始める。知人は糸を落としたと同時にスポットを釣り上げて、幸先がいいと思ったけれど後がなかなか続かなかった。私は最初のポイントでは辛うじて三匹釣り上げただけだ。それでも他が一匹二匹と間を置いてでも釣り上げているのに、私の餌には最初の一匹がなかなか喰いつかず、焦りが出てきてただ糸を垂らしているだけで満足している訳にはいかなくなった。ポイントを移動したがそこは更に酷くて誰も何も釣れず、最初のポイントの近くに再び戻ってきて実績を立て直そうとした。三匹で終えるのかという諦めの気持ちを払拭して、改めて糸を垂らすと、すぐさま手応えがあった。竿を上げるときのタイミングを合わせないと逃げられる。リールを巻き上げる手に加重がかかり竿がしなってくると掛かった証拠だ。そのときの期待感が何と言っても釣りの醍醐味だろう。餌を付け替え、次なる期待感を求めて垂らすと更に喰いついてきた。その後はもう入れ食い状態で、垂らすと同時に喰いつく。こうなると体力との勝負だった。釣るときはいいけれど釣り針に餌をつけるのが大変だった。ミミズが人の血を吸い尽くしたようなブラッドワームという餌を細切れにして針に付ける。揺れる船の上での細かい仕事は簡単に船酔いを誘う。三十匹近く釣り上げるともう限界だった。魚との戦いは船酔いとの戦いに変わってしまった。あの時休まずに吐いてでも続けていたら恐らく倍はいっていただろう。後になると悔やまれるがその場でその決意は出来なかった。皆の釣り上げもひと波超えてあと一時間したら帰ろうということだったけれど、その一時間が事の他長かった。話しかけてくる知人の話に相槌を打つのがやっとの状態だった。確かに遊び気分の出で立ちが先ずまずかったとは思うが、釣れない最初、船べりに寄り掛かるようにして糸を垂れ、長時間首をもたげていた為に先ず頭痛が来た。姿勢が悪かったのだ。内的なものが外的に表れたのだ。横になりたくてもそんな場所などあろうはずもなく、両の手で上半身を支えて頭痛と吐き気が止まる様、ひたすら深呼吸を試み続けた。御父様のお話に、船乗りは波に体が揺さぶられる為に血流が揺さぶられて血の滞るところがなくなる。その為に船乗りは健康体が多いと話されたことがあるけれど、胃の中が揺さぶられれば戻すしかないだろうと言うような、愚かな苦言まで飛び出しそうな始末で、もう少しそのまま放って置けば私の堕落性の全てが一度に噴出しただろう。最後まで粘っていた南米系のオヤジが、帰ろうと言ってくれた時の彼の日に焼けた年老いた顔が、天から光が射したように神々しく見えた。戻りの西の方角に船は走り、風を受けると幾分収まった気分になる。内的な整理は帰ってからにするとして、海上から見えるこの見事な風景だけでも視覚に焼き付けておこうと重い上体を起こした。アイスボックスの中で何重にも重なっている数え切れないスポットがたまに飛び跳ねる。舵を握る知人は大漁だと言って喜んでいるが、私にはもうどうでも良くて一刻でも早く陸に上がりたかった。

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