2011年7月28日木曜日

自由を考える

全体主義という言葉がある。サタン側国家としての三国同盟、日独伊が全体主義だ。そして講論にこうある。この制度のもとにおける自由は、個人が主張し享受できる権利ではなく、全体の前に捧げなければならない一つの義務であり、また犠牲として定義されるのである。ここだけを見る限りかつての教会の体質に良く似ていると思うのは私だけではないはずだ。民族国家を全体と取るか教会を全体と取るかの違いであって、個人の自由はなかったと言える部分も教会には確かにあった。その観点に勢いを得て青春を返せと叫ぶのかもしれないけれど、それには更なる重要な観点が抜けている。信仰の自由という自由だ。私達は信仰の自由というところの個人の自由を優先し、他の個人的自由を信仰の自由に捧げたと言える。よって誰かが教会を退いて教会の体質批判をするのであれば、信仰の自由より他の個人的自由を優先したのであり、内的霊的自由より外的感覚的自由の享受を取ったのであり、内的霊的なものが人間の主体であることを否定したということになる。もし脱会した理由が教理にあって批判するなら、教理を正しいと思った自分の落ち度を先ず自覚すべきで、そこに蓋をして教会をとやかく言うべきではないだろう。自由自由と口にするものに限って自由の意味を理解していないし、自分の中に正しい自由の概念はないようだ。私は内的霊的自由存在であると言える人間本来の自我の在り様により近い自由概念を、食口個人それぞれに於いても、或いは教会という全体に於いても把握しきれない時期が流れてきた。内的霊的自由が把握できた分だけ、私の中に取り入れたみ言葉は生命を得て生き生きと私に働きかけてくる。或る意味教会の全体主義的な自由への枷(かせ)をはめられることで、内的霊的自由を獲得する道を歩んできたのが今までの路程であったと言える。内的感性の育成、霊的感性の萌芽と育成はこの内的霊的自由の度合いによって生育度は異なってくるが、それは確実に個人にも全体にも備わっている。認識できないだけのことだ。私達の中に育まれてきたもの、教会として全体の中に育んできたものを決して軽々しく見るべきではない。それは御父様が勝利されて私達にもたらしてこられたものへの霊的な軽視だ。

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