2011年7月6日水曜日

今日の想い 334

意気揚々と帰ってくるイメージはあったが、知人の運勢の恩恵に預かって結果はついてきたものの、実際は疲労困憊の状態で帰ってきた。でも今までの歩みからしても大体そんなものだろう。思い通りに事が運んで気分もよく、更に結果もついてきたといった経験は過去に無い。店の運営でも、従業員の問題も無くうまくいっているように思えて気分がいい時は意外と実績は少ない。しかし頭を抱えざるを得ない問題があちこちで起こっていたりすると売り上げは伸びていたりする。同船した連れにビギナーズラックだと言われたが、右も左もわからないビギナーとしての内的葛藤や奮闘がそれなりにある訳で、おそらくその内的犠牲が条件となって結果をもたらすのだろう。そう思うと確かに吊り合いは取れている。人生の幸不幸を簡単に口にしがちで、起こる事柄を自分なりの適当な判断で幸不幸に仕分けしているが、遡って積み重ねてきた業を清算したいが為の不幸らしき事柄であって、私の本質はその清算できることを喜びとしているはずだ。私の本質は常にバランスを保とうとしていて、表面的に現れるあからさまな好き嫌いの感情とは異なっている。清算してバランスを保とうとする本質は神様から受け継いだものであり、魂の表面的感情には天使長やそれに並ぶ霊的堕落に関与している存在から受け継いだものが侵入している。本質こそが私自身であって逆に現実感のある感情は影に過ぎない。本質を中心として存在したいのか消え去る影を追い求める存在なのか、肉体を戴いて同じ世界に存在していても両者の違いは真反対だ。時代が変わり宇宙が変わろうとしている今でさえも、感情の赴くままに己が欲を満たし続ける生に没頭するなら、自らを悪魔の化身とされ逆の意味で神様を証す存在に落されかねないだろう。私の感情に直結している五感も堕落的なものが侵入して曇らされていて、本質を見通すことはできないでいる。人類は今、本質からなる新たな五感を形作られる過程にある。キリスト存在として再臨受肉された御父様の地上存在の意味がどれほど天宙的大事件か、驚愕の事実を殆ど誰もわかってはいない。人類は地上的外的にも完全に生まれ変わる。私の堕落的五感は本質的五感に取って変えられる。御父様を慕い侍る食口でさえ近い未来の天宙的変革を見通せるものはいない。勿論私もそうだが、既に起こりつつあるその前触れだけは痛いほどに感じている。

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