2011年7月7日木曜日

今日の想い 335

私が肉体をもった存在であるのは、肉体としての母胎が私の肉体を産んだからだ。それでは私が生命体として存在しているのは、肉体としての母胎である母親の胎が生命体としての母胎でもあると言えるのだろうか。私の魂体も同じように母親の胎が母胎なのだろうか。この疑問自体が不可解だと思うのは、地上的感覚だけで見渡していて、感覚を超えたものを見渡そうとしない霊的感性の欠如がそう思わせている。肉体の胎と同じ母親のものであるにしろ違うにしろ、生命体の誕生には生命体としての母胎があったからであり、魂体として存在しているのは魂体としての母胎があると言わなければ、魂的なものも生命的なものも肉体に付随するだけのものと言わざるを得ない。実際は生まれて直ぐの赤ん坊に自我を直接見ることは出来ない。自我の誕生は自我の目覚めとして思春期と言われる時期に訪れる。それまで自我は胎の中で護られて眠っている。生命体の誕生は七歳から八歳あたりの歯の生え変わる頃に、魂体は思春期の入り口で性的成熟の頃に、生命体の胎を脱ぎ魂体の胎を脱いで誕生する。順序として肉体が産まれ生命体が産まれ魂体が産まれ、そして自我が産まれると言う事が出来る。それはまさしく人間創造過程に於いて肉体としての芽が先ず誕生し、生命体としての芽、魂体としての芽、そして今の地球が現れて初めて自我の芽が吹きだし人類始祖が現れた、その過程と同じ過程を見ることが出来る。イエス様が十二歳の時、宮の中で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるイエス様の賢さやその答えに驚嘆したとあるように、その時のイエス様の変わり様や、御父様にイエス様が現れて使命を受け継がれた十六歳は、イエス様に取っても、御父様におかれても魂体の誕生時期であることがわかる。(イエス様の時代は十二歳頃には既に性的成熟を迎えていた) 食口達は皆そうだと思うが、信仰を受け入れるだけの魂を備えているのは魂の母胎による影響を大きく受けている。勿論受け継ぐ罪や堕落性も魂の母胎からの影響の部分もあるが、御父様を受け入れる準備が既に魂の母胎から用意されていたと言えるのは正しいと思っている。思春期に宗教的感性をもった魂体を誕生させようと、思春期までの胎の中で育ませた、魂の母体としての守護霊によって統一の信仰をもつ私が存在している。

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