2012年4月9日月曜日

メシヤとしての真偽

この御方がメシヤであるかどうか。御父様に直接尋ねたいというならまだしも、誰かに尋ね、誰かと論議することに何の意味があるのか。メシヤではないという説明にあなたは反論できないからメシヤと認めないと言うなら、メシヤの概念が、否定する者や自分が持っているメシヤのイメージ(或いは意味)とは異なっていると言うだけのことだ。メシヤを否定するのではなく、自分の歪んだメシヤ観を否定すべきだ。だいたい原理のみ言葉を聞いて初めてメシヤという説明を受け理解した者が多いだろうに、その狭い知的な理解度だけで、ましてや説明を受けたその言葉を使って、メシヤ云々を論議することに不自然さを覚えるのは私だけなのだろうか。救いに預かることの渇望、霊的生命を得ることの渇望をその人達に見ることはない。尊敬に値する存在が必要であるなら、道徳を踏まえた人格者と言われる人ならいくらでも見つけられるだろう。メシヤであるなら先ず人格者であるべきだと口を尖らせるが、或る者にとっては人格者と言える存在も別の者にとっては人格者とはならない。少なくとも飢えで死んでいく者が毎日六万人もいるのに、彼らが誰を人格者と敬うのだろうか。地上のことだけが全てでわからない霊界のことは触れずに置く、自分も地上的なだけの存在、それも見える範囲、感じる範囲以外の事は関知すべきではないと決め付けた上で騒ぎ立てているようにさえ思える。わからない霊界での救いは考慮に入れないと最初から決め付けてかかっている。イエス様が生きて歩んでおられた当時、誰がイエス様をメシヤだと認め、誰のその認識を天地が公認しただろうか。それは、イエス様に向かって貴方はメシヤですと口にした弟子達でさえも公認されはしなかった。最終的に弟子たちは十字架に付けられるイエス様と行動を共にはせず、メシヤ観が生死を超えるほどのものではなかった。復活したイエス様に出会って初めてメシヤへの霊的認識は本物になったのであり、生きたイエス様に接している間は霊的フィルターをかけられて覚醒することはなかった。イエス様が来られて、人々はこの人物がメシヤだと地上的に知り、メシヤに従って歩みさえすればそれでよかった、と考えるのは実に子供じみている。知った知らなかったというような地上的判断に委ねられないものがメシヤという認識にはある。メシヤだと宣言される人物を知っているか知っていないか、認めるか認めないかという両極を問うのではなく、この人物の中にどのような精神が生きているかを探求することができ、生死を超えて受け取るに値するものを差出されているという実感を深めて行くことが大切だ。心魂の準備が整った者は、この人がメシヤだと知らされることなしに、自分の救い人類の救いに関与する存在だと見抜く。(何を言っているのかわからない部分があったので加筆しました。)

2 件のコメント:

hitosato さんのコメント...

私は文師がメシアであるか否かは論じたことはありません、理由はメシア不要と思っているからです。ただ、少なくとも真の子女様によって不倫の事実が明らかにされた今、原罪がないとはどういうことか、メシアとは罪を犯そうとしても犯すことのできない完成人間ではなかったのか、メシアとしての資質に疑問を抱かざるを得ないのは当然だろうと思います。【メシヤではないという説明に自分が反論できないという理由から認めないと言うなら、メシヤが、自分が持っているメシヤのイメージとは異なったと言うだけのことだ】 と書かれていますが、不倫の事実は創造原理の否定です。イメージが違ったのではなく、教義に反する行為です。何か意味があるという考えはできる余地がないのです。
現実の問題を見て見ぬふりをして観念論を振り回すのはいかがかと思います。
もっとも何があってもただ盲目的に信じるというのも信仰のあり方の一つかもしれません。しかし、38年以上の信仰歴を持つ人は、霊感商法で伝道されたとは思えないので理性的に信仰したと思うのですが。理性は捨ててしまわれたか。
hitosato


参照 http://www.youtube.com/watch?v=PrUNoPzm_gM

匿名 さんのコメント...

この人物の中にどのような精神が生きているかを確認することができ、生死を超えて受け取るに値するものが何一つ無いという実感を深めて行くことが大切だ。心魂の準備が整った者は、この人が偽メシヤだと知らされることなしに、自分の救い人類の救いに関与しない存在だと見抜く。

あなたの中に神はいますか?
良心は有りますか?
哲学的思考は捨てられたのでしょうか?

アベル