2012年10月15日月曜日

今日の想い 473

私が復帰された当時の教会には愛国愛人の精神が宿っていた。私が、そしてこの群れが、憂えるこの国を変えるという愛国魂に燃え、気概に溢れていた。先輩食口の多くは大学出か中退したかで知性にも長けていたし、原理の講義や勝共の講義も聞き惚れるほど冴えていて聴く者の魂を燃え上がらせた。高校生でみ言葉に触れた私は、教会や勝共の事務所で活躍する二十代の兄や姉達が実に大人びて落ち着いて見えたし、こんな先輩食口になりたいという憧れもあった。当時の社会で浮いた存在かというと確かにそうだったのかも知れないが、この日本社会の組織に埋もれたまま流されていかざるを得ないという当時の認識は若者の誰にもあって、私達は浮いた存在と言うより何かを掴んだ羨ましい存在に見えているはずだという誇らしさはあった。同じようなもうひとつの存在が敵対する一方にあって、彼らは共産主義者だった。方向性は逆だったが保持している魂の熱は同じくらい強く、にらみ合うことでお互いがお互いを切磋琢磨していた。原理と勝共理論で武装して歩む私達は、理想天国の遠くない実現を信じて疑わなかったし、生活環境が悪く耳パンをかじろうが寝袋生活であろうが、或いはどんなに反対され迫害されようが、それもみ旨が為されたときのひとつのエピソードくらいにしか思っていなかった。しかし熱は冷めていく。兄弟ひとりひとりに取っても、全体に取っても、当時の熱情は初愛に似ていて燃え上がり、或る期間を熱い想いで過ごすけれども、それを超えれば受け取る熱から与える熱に次元を上げなければならない。熱は冷めてしまっても初愛を貫き通す試練を私達はくぐって来た。その間は惰性的にも感じ、服属的にも感じ、実りを得ることはない諦めも蔓延し、共に歩んだ兄弟は一人去り、二人去っていった。今、理想天国が明日にでも実現されるという実感をもって嬉々として歩む兄弟がいれば、それは私達からみてもお目出度い存在だろう。御母様が話される、初期教会時代の真理と神霊に溢れた教会を取り戻したいという想いは、食口の誰もが魂の深いところに初愛の記憶としてあって、しかし時も経ち、いろんな経緯も経ながら、多くのシガラミで雁字搦めにされてしまった今、どうなるものだろうという思いの方が勝っている。御父様がいつも二世達を前に座らせてみ言葉を語られたように、一世が積み上げた土台を足場にして次なるみ旨の段階を二世に手渡すことが願われていた。一世が積み上げたものを形通りに受け継ぐことを御父様は願われたのかというと、そういうことでもないだろう。御母様の真理と神霊に溢れた教会も、今までの摂理が失敗したからもう一度初期に帰ってやり直せという意味ではなく、御父様の勝利された土台の上に上がって改めて仕切り直しをして進もうと言うことだと思う。一の位から十の位に上がるように、次元を上げて新たな出発を為そうということだろう。しかし次元を上げることの意味が未だに私はわかってはいない。そしてもちろん、初愛の当時に帰ることはもうない。