2012年10月16日火曜日

今日の想い 474

復帰歴史は前もって説明してもらって歩む道ではない。勝利して後に収拾するようになっている。歴史の流れ、時の流れのどの一点を取っても、誰も直面していることの確かな意味を説明されて歩んでいる訳ではない。自分の過去の歩みのどの一点を取って見ても、やはり同じことが言える。要するに訳もわからずひたすら歩んできたのであり、振り返ってみれば復帰に加担した跡が見えるということだ。訳もわからず歩んできたのなら、何を持って選択意志を働かせてここまできたのかというと、御父様に対する帰依だ。絶対信仰、絶対服従だ。絶対信仰、絶対服従でここまできたにもかかわらず、今直面している問題に対しては自分の判断を働かせようとしている者がいる。いつのまにそんなに利口になったのだろうか。絶対信仰、絶対服従と、自分の判断とは全く異なる。その違いを曖昧にして等閑(なおざり)にするのであれば信仰は形骸化する。献身路程で何ひとつ外的な自己主管物も持たなかった頃に比べ、社会に浸透し社会的な環境も持ち合わせている今は、確かに社会生活では自分の判断も必要になってくる。だからといって自分の判断が絶対信仰、絶対服従に取って代わるものではない。このことだけは念を押しておくべきだ。であるにもかかわらず、自分はこう考えるとかこう判断するとかと言いながら、自分を立てようとしている。み言葉を、御父様の指示を、自分の判断をもってこれがみ言葉の真意だ、これが御父様の口にだせなかった真意だと言うなら、それは既にみ言葉でもなければ御父様の指示でもなくなっている。さらに問題なのは良心を持ち出して、良心に照らして、とか、良心はないのか、と言ったあたかも天に90度で直通する良心が既に備わっているかのような物言いをしているけれど、誰も良心基準が天に直接通じるほどには至っていない。私達はこの世に対しては蛇の如く利口であるべきだけれど、天に対し御父母様に対しては愚鈍なまでに素直であるべきだ。アダムとエバは不信から堕落したのであり、次に自己主張から堕落したのであり、そして自己中心の愛の環境を夢見てしまった。この堕落の三大要素は自分勝手に判断するという行為の中に全て含まれている。