2012年10月27日土曜日

今日の想い 480

探しものは何ですか。見つけにくいものですか、、、。軽快なリズムと共に口ずさんでしまう、日本人なら誰もが知っているフレーズだ。歌はそのあと、それより一緒に踊ろう、踊って夢の中へいこうと誘いをもちかける。人は一度は自分に問うてみるらしい。どうして生まれたのだろうか、何のために生きているのだろうか、死んだらどうなるのだろうかと、、。その問いの重さはそれぞれで違うけれども、問うてみることは確かだ。しかし所詮わからないことだろうと、わかったところでまた別の新たな問いがでてくるだろうと、早々に諦めてしまう。それより自分が生まれ出た感覚世界に没頭し、感覚欲望を満たしてくれる周囲に煌めくものを楽しまない手はないと、誘惑にかられていく。人間の精神の停滞は諦めから始まる。み言葉に触れて御父様に出会った食口であっても、やはりある段階で諦めようとしている。神様から与えようとされるものを中途で手放そうとしている。探しものは見つけたけれども手にしてはいない。手にしようと思えば終わりのない内外の投入が必要だ。それより今の段階に留まってそれなりの感覚世界を享受してみたい。あるいは、感覚世界から完全に隔離されて生きることはどうせできないのだから、それなりの感覚世界への浸透は仕方がない。食口は食口でそんな誘惑にかられていく。伝道は、無知から知へ、死から生への導き手の役割を担うことだとも言えるが、私自身が知の領域に漕ぎ着けたのでもなく無知から知への中途であり、死の領域から完全に抜け出した訳ではない生命の木を得る中途であるなら、伝道は私自身に対しても言えて、その伝道は生涯継続していくものだろう。そして私と全体がリンクしているなら私の伝道と人々への伝道とはリンクもし、切っても切れない関係性にあるはずだ。個への指向が蔓延している現代社会に、為に生きるという個を犠牲にして全体に生きる逆向きの指向は、現代社会では甚だ育ちにくく、せっかく接ぎ木され存在根源の根を真のオリーブの木の根とされながら、生命の木として花を咲かせ実を実らせるまでを今生で見ることはないだろうという諦め気分が、教会も半世紀になりながら培ったものが見えないという現実気分と共に被さってくる。御父様の聖和に合わせて成約ペンテコステを期待する気持ちは、御父様の願いを受けながらも茨が多く被さり、突きぬけるべき困難を実感する兄弟達にとっては切実だろう。ペンテコステが私達が期待するような、或いは聖書の記述に見るような仕方でもたらされるとは思わないが、御父様が主体である霊界におられるなら、対象である地上世界に思いもよらぬ働きを準備しておられるのはその通りだろう。それは恐らく期待するようなものではなく、後にも引けず先にも進めない、四方を完全に包囲された状態で、堕落圏を越える光明が御母様を中心として差込み、そして世界を天地開闢の光が御母様を中心として燦然と輝き出るだろう。夜明け前が最も暗い。これでもかと言うほどに更なる困難が覆いかぶさり、兄弟達を更に内外共に追い込んでいく。それ以上追い込みようがない位置で、絶対信仰、絶対服従を棄てなければ、私達は次元を上げて新たな位置に立つ。