2012年10月27日土曜日

今日の想い 481

誰でも試練に会う。必ず試練に会う。そして試練のその場で、今まで培ってきた内外の供えが生きるのか棄ててしまうのかを自分で決める。内的霊的に踏み絵を前にする局面が必ず出現する。そして踏み絵のその前で、中間位置の私は神側なのかサタン側なのかを自分で決定する。もちろん絶対信仰、絶対愛、絶対服従の三本柱が私に立っているなら何の問題もないだろう。しかし今まで味わったことのない恐怖を前にして、自分が絶対信仰、絶対愛、絶対服従として聳え立つものを私の中に見ることができるだろうか。怒りが込み上げて我を忘れて衝動に出るのはサタン的だけれども、感情として、私に火をつけ抑え切れない善への衝動を発する言葉を持っているかどうかが問われると思う。神様、御父母様と口にしただけで、涙を禁じ得ないというほどに心情因縁を持っているならともかく、そこは堕落人間であって、幾度となく神様と口にしながら、幾度となく御父様と口にしながらも流されてきたことも事実だ。十字架にかかられるイエス様を否定してしまった弟子達と同じだ。人は誰も自分という存在を把握しているようで、存在の中で最も理解できず不可解なのが自分という存在だ。生きるか死ぬかの局面で思いもよらぬ自分の顔を見てしまうものだ。そんな局面は滅多にないが、食口であるなら、常識を無視した立場に何度も立たされながら、自分のいろんな醜い顔を見ただろう。私がサタンの血統の実体だと落胆する体験をすればするほど、私の中に流れるサタン的血を流してしまいたいと思えるほどに罪を実感するだろう。そうしながら罪や堕落という言葉は感情を伴った生きた自分の言葉になる。そして救いや復帰という言葉も憧れの感情を含む自分の言葉となっていく。み言葉を知っているかどうかではなくて、み言葉が私の中で生きているかどうかを問われる。私の中でサタン的な言葉、概念が主体の位置を占めるなら不安や恐怖に打ち勝つことはできないだろう。しかし私の中でみ言葉が生きた概念として主体に立つなら打ち勝つことができる。