2012年10月24日水曜日

今日の想い 479

頻繁に愛という言葉を使う。信仰という言葉も使う。血統という言葉も使い心情という言葉も使う。御父様がみ言葉で語られたそういった言葉は御父様の言葉だ。堕落人間の概念にはない御父様の言葉だ。そういった言葉をあたかも自分の言葉として理解したように頻繁に使いながら論理を立てる。現代版神学論争を繰り広げ、概念のない骨のない言葉を組み立て、何の霊的支えもない、言ってしまえば蜃気楼に住めるかのような幻想を恥じらいもなく己の理解として差し出している。もし御父様に差し出すとして、ハナから一蹴されて見向きもされないだろう。どんなに原理の言葉を引用しようと、原理にはならない。原理用語、み言葉の用語をどれほど使ったとしても食口のひとりすら見向きもしない。自己満足のナルシストがせっせとブログをしたためる。ナルシストがナルシストをナルシスト的に責め、慰め、褒める。ナルシストはどこまでも自己中心的だ。しかしその自覚を十分備えて、そういう己との戦いに転じるなら、それはそれで意味を為すだろう。要するに御父様が日記を付けなさいと言われた、そこに留まるべきだ。日記として自分の事に留める限りは赦される。ここまで批難中傷罵倒の言葉を並べたてるのかと、ブログの中には返す言葉のひとつでも書きなぐって寄こしたいものがあるが、私はそれをすべきではないことを知っている。そこを越えたら私のブログも日記ではなくなる。百万回愛という言葉を連ねても、愛を動機とした僅かの行いには比べられない。信仰に於いても、心情についても勿論そうだろう。言葉を連ねるよりは、行動に出る方が遥かに尊いことは誰も疑いようがない。そうであるなら、申し訳なく、謙虚に、控えめに、目立たずに更新することだ。