2012年10月31日水曜日

今日の想い 484

21修だったと思うが、城ヶ島の海岸に徹夜祈祷に行ったのを覚えている。高校を卒業するとそのまま献身生活に入ったが、先ず部署につく前に21日修練会に送られた。安価な若者向けの空席待ち航空券(当時そういうのがあった)で羽田まで飛び、それから厚木に向かったが、それが初めての空の旅で、四畳半の貧乏下宿生から何か急に箔がついたように感じて嬉しかったのを覚えている。当時17歳だったから何かにつけて子供だった。修練会の講義の記憶はないが名物進行係の面白い話は記憶している。万物復帰もあったしグループに分かれて対抗騎馬戦などもしたけれども、今もって印象深く残っているのは、夕刻にバスで出かけた城ヶ島の徹夜祈祷だった。なかなか祈りの境地に入れない為に、ひたすら御父様を連呼するような惨めなものだったが、そのうちに敢えて言葉にして口に出すのをやめて、波の打ち寄せる音だけを内面に満たしていると、今までに味わったことのない、何ともいえない包み込まれるような安らぎを覚えた。祈りは神様との対話だけれども、祈りの説明で祈りに入れるわけではない。内面の奥に神様に通じる入り口があって、そこに辿り着くことが先決であり、更にその入口の鍵を開けて入って奥深くまで訪ねて行くと、魂に響くものを受け取れる。生活のこと、感覚的欲望、不安や恐れ、普通そういったいろんな念が溢れ返り、神様に通じる参道に至るどころか内面の深みに入っていくことすらできない。おそらく私はあの徹夜祈祷で初めて祈ることの感覚を受け取り、参道の入り口まで連れていってもらった。私達は日頃あまりにも、邪念とは言わないまでも押し寄せる念の洪水に翻弄され続けている。勿論生活感情も必要で、それがなければ地上で生き続けることはできないが、内面の奥座敷、幕屋であり神殿に向かう姿勢が準備されなければ、自分が霊を戴いた存在であることすら気付かない。私が霊として、さらに御父様を起源とする霊として生きるのでなければ生きている意味はない。その為に祈りは欠かせないが祈りの境地に入れないなら先ず祈りの姿勢を準備する必要がある。祈りの姿勢を準備する為にはこの世的念で固体化している心魂を解きほぐし、流れをよくしなければならない。その為には、、私見も言えるがそこは各自の5%だろう。今も修練会で徹夜祈祷をやっているのだろうか。なかなか祈りの境地に入れないとしても、神殿への道は見出す必要があり、徹夜祈祷はその為のいい機会だ。み言葉を聞いても、御父様に出会っても、み旨だと思って歩んでいても、そして祝福を受けても、私の内面の奥に入ることができ、神殿を見出し、至聖所で御父様の心情を受け取れなければ全ては虚しいものに変わるだろう。