2012年10月13日土曜日

今日の想い 472

良くも悪くも言葉によって主管を受ける。そして同じ言葉でも立場の違いによってこうも受け取り方が違うものかと思わされる。私も言葉を並べ、ブログで公開している以上、目を通して下さる方がどう受け取るかに対しては多少なりとも責任はある。考えるのは自由だし書き上げるのも自由だけれども、それをネットで公開し不特定多数の人々の目に晒すのであれば、それ相応の責任が伴うことは明白だ。たとえ匿名であってもその責任から逃れられるものではない。ブログで人格の見えない相手に配信する同じ言葉を、実体の当人の前で言えるかどうかをまず少なくとも考えてみるべきだろう。そうすれば責任感情もいくらか芽生えるだろうが、相手が見えないことをよしとして無責任な言動をそのまま並べるなら、自由性に基づいた意見ではなくて分別のない悪神の業、悪神の言葉を垂れ流しているだけだ。論理はどうにでも解釈できる。論理は力ずくで曲げられる。下手に頭がまわると、いくらでも口をついて流れ出る反論や批判そのものに酔いしれる弁護士のように、言葉の遊び、論理のおふざけを楽しんでいるに過ぎない。政治論議に花を咲かせるぐらいなら許せるのかも知れないが、ことみ言葉をいいように解釈し、御父母様のこと、真の家庭のこと、み旨のことをダシにして悪魔の祭壇に祭り上げるなら、それ相応の覚悟が必要だろう。言葉で裁く者はもちろん言葉で裁かれるけれど、み言葉を鋭利な刃物として使って脅迫まがいな言動を投げかけて、当の本人は恐ろしくはないのだろうか。言葉に霊が宿る。言葉に魂が込められる。何食わぬ言葉のようでも口にし書き記す以上、私はその想いを言葉に投入して差し出している。私の周囲にいる霊人達は、良くも悪くも言葉に込められた想いを糧にしていて、良い糧には善き霊人が集まって食し、悪い糧には悪なる霊人が集まって食(は)む。口を通そうがネットだろうが、その言葉を受け取る側もまた然りだ。兄弟がみ言葉を訓読するのも、教会を認めない反対派が批判できる箇所を捜し出すのも、表面的には同じ姿かも知れないが、関与させる霊は全く異なっている。解釈という論理のステージを超えて、神霊、心情が関与する領域に入れない者は、そこに留められたまま人類進化から外されて置いて行かれる。