2012年10月8日月曜日

今日の想い 469

今日の聖日礼拝は証し会だった。ある二世の証しに続いて、ひとりの姉妹が壇上に立った。最近復帰された姉妹だ。長いクリスチャンとしての信仰年数を経て、真の御父母様に辿り着いた感謝を口にした。真の御父母様を知らされたその日が、御父様が聖和されたその日だったことに彼女が触れたとき、会場のあちこちでため息に近い声が漏れた。伝道で原理のみ言葉講義を一通り聴いてもらって、おそらく一人を導く最後の言葉は、今生きて働かれる再臨のメシヤ、御父様が御存命の今、知って行動することの恩恵についてだろう。しかしこれからの伝道は、生きた御父様ではなく聖和された御父様を証ししなければならない。その姉妹の語り口から、目にしてもいない、そして会うこともできない御父様を慕う純粋な彼女の心情を、その場にいる食口の多くが感じ取ったはずだ。こういったとき、私は以前にも投げかけた、ある自分への問いに至る。キリスト教の背景のない私は、この世にいないイエス様を慕うクリスチャンの信仰が、生死を越えた深い信条にまで至る内的なものを理解していない、と言うより体験し味わっていない。私が統一教の信仰に至ったのは明らかに生きた御父様がおられたからで、もし原理を聞いたときに既に御父様が聖和しておられて、内的霊的な存在としてだけ向き合うなら果たして信仰に入っただろうかという疑問だ。そして御父様は確かに聖和され、聖和式を終えた今、外的なものに囚われない、内的霊的御父様を慕う信仰にまで高めてきたはずだと自負していた私が試されている。聖書の言葉を諳んじ、その言葉の中にイエス様の愛を見い出し、常にイエス様と共にあるというクリスチャン達の確信的信仰が、御父様直接に訓練されながら築いてきた私達の信仰を推し量っている。私が何の準備も備えられないうちに聖和されてしまったと、不平不満ばかりが喉の辺りを塞いでいて、恨み言として口をついて出てくるが、弟子が記した聖書でさえイエス様の残した言葉として生命視しているのに、私達には御父様直接に八大教本教材を残してくださったことに対して、彼らを遥かに超えた内的霊的実りを差し出す我々であって当然だろう。み言葉を諳んじるほどに訓読するのは勿論のこと、み言葉が私の生活原理とならなければならないだろうし、み言葉の中に御父様を、御父様の御心情を、現実以上の現実感をもって見て聞いて、私に訪ねて下さるのを体験しなければならない。