2012年10月18日木曜日

今日の想い 476

この世の愛と本然の愛とは愛の概念が異なるというみ言葉がある。我々が思うところの愛はこの世でも通じ得る概念の愛だろうか。この世の人達が愛だと思っている愛と、私のそれとが同じで変わらないのなら、私はまだ本然の愛を知らずにいるということになる。いかがわしいものを偽りの愛、さらに踏み込んで自己を中心とした愛を偽りの愛、と言うに留まるなら、この世でも十分通じ得るし、この世的愛の概念にみあってもいる。しかし堕落と本然とは愛の概念が異なるとの言い方は、本然の愛はこの世の愛プラスアルファではなく、概念自体が異なっている全く別物という感じを受ける。真の愛という言葉をみ言葉のどこにでも見つけられるし、真の愛という言葉を使ってもいるし、食口にしてみれば随分慣れ親しんだ言葉でわかったようなつもりでいるけれど、本当は勘ぐりの範囲に留まったままで、真の愛の概念自体を正しく受け取ってはいない。私達は既に探し当てているつもりでいるだけで、本当は真の愛の香りを少し嗅いだだけで御父母様に従いながら真の愛への道を辿っている、と言った方が正しいはずだ。真の愛に対してもそうであるように、真の生命、真の血統に対しても同じことが言える。真の生命の概念、真の血統の概念も、愛によって生命が誕生し、生命によって血統という縦的なものを相続していくなら、本然の愛、真の愛の概念を受け取れなければそれらの理解も得ることはできない。私達は真の愛にしても生命にしても血統にしても、その概念を得るには至っていないけれども、しかし血統転換儀式を受け祝福は戴いている。戴いた祝福は真の御父母様から受けたのだから真の愛が基にあり、真の生命も真の血統もその苗は植えられたはずだ。概念を受け取る以前に実質を受け取った。実質の苗が成長して私の中で真の愛、真の生命、真の血統が実を結ぶ為には、私の概念を否定して壊し続けなければ成長はおぼつかないだろう。それは移植した臓器を外来の不純物として攻撃されないように免疫低下の薬を飲み続けるようなものだ。それ故に絶対信仰、絶対服従、絶対愛だ。真の愛、真の生命、真の血統として花を咲かせ実を結ぶその時を恋焦がれ、個人に於いてそうであるように家庭でも氏族でも国でも世界でも、真の愛、真の生命、真の血統として花を咲かせ実を結ぶその時を恋焦がれながら歩んでいく。堕落的な概念を壊す為には失望を希望と認識すべきであり、愛されない歓びのない幸せのない現実を、愛され歓びを受け取り幸せに満ちていると認識すべきであり、不運な現実は真の位置から見れば幸運であり、幸運として認識できない私の概念に問題があると見るべきだ。徹底した自虐嗜好のように思えるけれども、霊的に見るなら自殺する者が自己中心、自己愛に凝り固まった霊に主管されているように、真逆の意味で真理と神霊に主管され、真理と神霊によって祝福によって植えられた真の苗は成長する。