2012年10月19日金曜日
不安と恐れを超えるなら
心地いいのか居心地が悪いのか、前進するのに常に私のその気分に左右されながら道を選択し、次の一歩を踏み出している。それが普通の堕落人間の在り様だ。毎日の歩みが惰性的で発展性を見ないなら、私の閉鎖的な気分に忠実なだけで無闇に気分の揺れ幅を大きくしたくはないということだ。それはまだ見ぬものへの恐れに主管され、その恐れで踏み出せないとも言える。それは霊的には一歩を踏み出せないどころか踏み出そうともしていない。時間的にも空間的にも身動き取れないでいる。目覚めている間、意識は外に向いており、外界の印象を内面に満たした状態では内面の本質、心魂の深みを観察することは難しい。さらに心魂にしか話しかけることのない霊を認識することはさらに難しい。ただ内面の表層である心地いいか居心地が悪いかという狭い気分の圏内、恐れと望みの圏内に生きていて、その感情とそれに沿う僅かな意志が全てだ。み旨を前進させる為には神霊を働かせなければならない。神霊が私に働きかける為には、この圏内から飛び出て、刻々と拘束し続ける情念(恐怖と希望)を超越した位置に立たなければ霊的に前進することはない。生きて私の責任分担を追求しながら、家庭復帰にしろ氏族復帰にしろ、或いは経済復帰にしても、事情を並べながら身動き取れないでいるのは、事情が問題なのではなく事情を理由に発っして醸し出す不安と恐れから何らの意志も差し出せないでいるからだ。それが問題だ。私が関与するみ旨、復帰がどういう形で為されるかは、所詮私の思うようにはならないし、私の思う形にすべきでもないだろう。あくまで私は心魂を備えた復帰の為の道具であって、私に働きかける神霊が復帰の形を造っていく。私は道具となって関与しながらその経過や形になっていくものを、働きかける神霊の叡智に感動もし感謝も捧げながらお手伝いしていく。私個人のことですら四苦八苦しているのに、氏族メシヤだ国家メシヤだと大上段に掲げられる御父様の願いをどうやって達成していけばいいのか、という課題は、私はもはやこの皮膚によって閉じ込められた私に留まる限り諦めるしかない。しかし真理と神霊が働きかける私、この皮膚を蹴破り不安と恐れに戦いを挑み超えることができれば、私は不可能を可能に変えることができる。その意味で、強く雄々しくあれと言うことだろうし、死生決断でもある。