2012年10月10日水曜日

今日の想い 470

聖和された今、御父様の心情をより近く感じるし、そうあるべきだと中心は言うけれど、聖和されてまだひと月にも満たない。そんなに手の平を返すように、人間の感情は新たな環境に慣れ親しめるものだろうか。私の家族の一人を失うとして、御父様が言われたように涙を流さずに笑って送ってあげるべきなのかも知れないが、感情ある人間としてそれがどれほど難しいかは少しでも想像してみればわかる。ひとつである家族が、主体対象関係の一方を失う時、別れられないほどにひとつになっていれば尚更、天地が崩れるほどの悲しみを味わって当然だろう。私達は愛する御父様を失った。御父様は聖和されて霊界に行かれたのであって、失ったわけではないのかも知れないが、確かにそう理解できるけれども、しかし感情としては失ったのは紛れもない事実だ。これから聖和された意味を理解しながら、私の感情の部分を納得させて合わせていかなければならない。もしある食口が、御父様が聖和されて、以前と同じで何の感情の変化も起こらないと言うなら、それはまだ御父様が逝去された事実を感情は認めていないからだ。ひょっとしたら、その感情は自分の死を見るまで封印されたままなのかも知れない。しかし御父様は人類全ての御父様であって、たとえ幾世代の時を経るとしても、必ずや御父様への慕わしい感情を抱く時があり、そして逝去された悲しみを深く味わう時がある。誰の御父様でもない自分の御父様だからだ。そしてそのとき、私の今の感情を理解してくれるはずだ。食口それぞれにいろんな心情段階があるだろう。御父様を理解しようがすまいが、御父様への感情を抱こうが抱くまいが、それぞれの御父様であることに変わりない。自分が認めるから御父様なのではなく、御父様が認め、御父様が無知無感情な者でも子として受け入れられ、全ての子の為に差し出す愛を惜しまない真の愛の御方であるから御父様なのだ。そう、御父様は愛において極めて一方的だ。誰が何と言おうが愛の主体であることを譲らない御方だ。私の本当の親だと言い張り、事実真の親として、どんな犠牲を払うとしても人類ひとり残らず、家族として御国に連れてくることを天地に誓った御方だ。御父様のその執念で、私が救われることも、家族が救われることも、氏族が、国が、人類が救われることも確約されている。しかし一方で対象の自覚がない分だけ、御父様の犠牲も増えて行く。聖和されて、もはや肉体を持たれない御父様は、肉体を持つ人類を救う為にどれほどじれったく、どれほど切ないことだろう。見て聞いて触れて、話もしてやれ、褒めも怒りもされていたのに、、、。今、私達が御父様の代わりに御父様の体となるべきだろう。子女である人類復帰への、その御父様の熱い想いと愛の衝動を、もし私達の体を使えないなら、たとえ岩であっても乗り移って働きかけられるだろう。御父様は私達の前で何度もこう告げられた。「御父様は能力のない御父様ではないよ。実力も何もかも兼ね備えた御父様だよ。」 そんな御父様は、私達の思いもよらない仕方で、天宙復帰の全歯車を一気に回し始められるかも知れない。私の思考の中に、いろんな希望的在り得る事柄が浮かんではくるけれど、しかしこの今の感情だけはまだ説得できないでいる。私の感情はこう叫ぶ。御父様の心情世界に飛び込みたい。