2012年10月21日日曜日
今日の想い 477
店はスクラップアンドビルドで、時代に合わない店、固形化して修復が難しい店は一旦たたんで閉め、そして全く新しい店を作り直す。修復は新しい店をつくる何倍もエネルギーが必要だということを、或る程度店の経営を手がけた者は知っている。御父様も復帰に対して同じように話されている。再創造は投入した力よりももっと投入しなければならないと。創造するより修理するほうが大変なように、それ以上に投入することを蕩減という条件で払っていく。神様が流された血と汗と涙は、創造よりも復帰に対して流されたことの方が遥かに大きいだろう。勿論創造への莫大な時間的エネルギー的投入も計り知れないが、復帰への投入は更に大きいものだ。そうであれば第二アダムであるイエス様への神様の想いは第一アダムへの想いに比較できないだろうし、さらに第三アダム御父様への神様の想いはそれにも増して深いものがあるはずだ。それに応えられた御父様であり、神様の復帰への執念を御父母様を中心とした摂理をもって応えられた。私達はみ言葉を通し、自叙伝を通して復帰に投入されたその一端を知ることができるが、その心魂の砕かれて磨り潰されるほどの血と汗と涙の路程は私達の認識をはるかに超えるものだ。或る意味、知らないほうが返っていいと言うくらいの常軌を逸した内的霊的路程を歩まれた。勝利された栄光の主であられるけれども、栄光に対する概念を変えるほどに血と汗と涙にまみれている。犠牲の上に犠牲を強いる栄光であり、砕かれて磨り潰される栄光であり、切り刻まれて塩を擦り込まれる栄光だ。私達は御父様を慕い侍る歩みで確信することがある。それは汗を流すとき御父様が傍らにおられ、涙を流すとき御父様が語り掛けられ、そして血を流すときは御父様が入り込まれて御父様御自身の血を流されるということを。だから私達は汗を流すことに喜びを覚え、涙を流すことにも感謝し、血を流すことも厭わない。