2012年10月25日木曜日

霊的無知

私はと言うと、生き続けることの不安と恐怖もあり、死ぬことへの不安と恐怖もあった。さらに不安と恐怖に苛まされる私という存在自体が何かも理解できず、存在しているのに存在がわからないというこの無知はまさしく霊的無知だった。霊的無知は外的無知とは全く異なる。生まれることの意味、死ぬことの意味、人生の意味を問うのは霊的無知であるけれども、もしその態度が物思いに耽ってみたり、コーヒーでも飲みながら思索してみると言うのであれば、それは実のない言葉を見い出すための遊びであって、不安と恐れに苛まされるのでなければ霊的無知とは関係がない。霊的無知には時間や空間を考慮する余裕などない。生と死の狭間で気が狂わんばかりの状況になる。食口の誰もが真剣に悩んで原理に辿り着いたと言うかも知れない。表面的には混乱した今の教会の状態で、それぞれが内的態度がどうなのかを無理にでも迫られる今、迫られて発する態度や言葉として表れるものに、原理に辿り着いたそれぞれの出会いは、人によって随分異なるものだと思わされる。真剣に悩んでこの道に来たであろうその悩みの質が随分異なっている。自分と同じ不安と恐怖や悩みを味わってきたのなら、そういう内的態度は取れないはずだと思わされる機会が度々ある。本当の意味での霊的無知がどういったものか、それを経験せずにこの道に来ている。霊的無知が分からなければ、救いへの必要性というより、救いへの渇望はわからない。御父様に対するメシヤとしての真偽も、教会や真の家庭に対する追求も、願われ要求されてきたことへの疑問や不満も、問う本人自体に救いの渇望を見ないのであれば問う意味すらない。自分が夢見る理想像、自分が夢見る理想世界。霊的無知を知らず救いの渇望がないのなら、救いとは関係のない自分の理想像や理想世界を御父様のそれに見ていただけの事だ。救いの渇望がないのなら、自分の願いと御父様の願いが少しでもずれるなら、御父様からは離れざるを得ない。私が堕落の位置で描く理想像や理想世界に何の意味もない。御父様の胸のうちにある理想像や理想世界が堕落の位置で正しくわかるはずもない。しかし私の否定できない事実は専ら救いへの渇望だ。それは御父様以外に誰も救ってくれる者はいないし、御父様にしがみ付くしかない。堕落の位置で救いの必要性を感じないのであれば、御父様がメシヤかどうかを問う意味がどこにあるのだろうか。彼らは霊的無知の無知だ。