2012年10月9日火曜日

心情の香りは、、

天使長ルーシェルはその居るべき位置を離れて、エバと犯罪に及んだ。居るべき位置、即ち天使には天使の定められた居るべき位階があるにもかかわらず、その原理原則を無視して位階を飛び越え堕落してしまった。堕落性本性のひとつである自己の位置を離れる、は、混乱した状況の今でこそ最も意識して気をつけなければならない堕落性だ。共産主義者は労働者に階級意識という比較する意識を呼び起こし、資本階級の徹底批判に明け暮れ、そしてもし労働者の中に歩み寄る者でもいれば資本階級に媚を売る反逆者とレッテルを貼って皆の前に晒し、分裂を煽るベクトルに一層の拍車をかけた。自己の位置を離れさせて主管性を転倒させるように仕向け、ルーシェルから受け継いだ人間の堕落性を執拗に刺激させた共産主義だが、我々の中にも同じ堕落性としてその危険性を孕んでいて、その芽が伸びやすい環境にあれば常に霊的視線を向けていなければならない。教会に対して不満もあるだろう。責任者に対して言いたいこともあるだろう。しかし指摘することと批判することは異なるし、指摘するにしてもその動機が一体化への歩み寄りを願ってなのか分裂なのかを精査しなければ批判することと同じになってしまう。要するにその衝動に堕落性がどれほど関与しているかだ。サタンは良心の仮面をつけて堕落性に働きかける。特に中心批判にはサタンが関与しやすく、今の状況はサタンに取っては願ってもない状況だし、仕掛けられた罠に喰いつく兄弟も多いだろう。批判すれば時を違えて逆に批判の対象になるのは蕩減原則であり、結局は教会の分裂も私の内面の分裂へとリンクして、指弾したその同じ指が私の内面にも矛先を向ける。責任者であろうと一教会員であろうと、先輩食口であろうと後輩食口であろうと、私と同じ兄弟に何ら変わりないと十把一絡げの平等意識を持っているけれど、霊界に位階があるように、私達の関係性にも明らかに位階があることを認識する必要がある。それは心情基準による位階だ。誰をも肉身を纏う人間のひとりとして接するのではなく、精神の高み、心情の深みを感じ取り、畏敬の思いで対することに勤めるべきだ。そうであれば中心者に対しても言葉を選び、言動に細心の注意を払うのは当たり前だろう。御父様に侍るのはその御心情に侍るのであり、聖和されればその認識は更に強くすべきであり、中心者の中に御父様の心情をみて侍って当然だろう。心情だとか、精誠だとかの言葉を理解している私達なら、生活の中に、兄弟や中心との関係性の中に、教会の中に、私の言動に、その言葉が活きて働いて、香っているかどうかは感じ取れるはずだ。批判の嵐の中に心情は香ってはこない。